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マリーゴールド (1)

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月25日(木)15時26分20秒
編集済
 


電話のベルが鳴った。
眠い目をこすりながら、枕もとの時計を見ると、針は午前二時を指している。舌打ちをしながら枕元の受話器を取った。

「高志、寝ていた?」
と、元気な声。弥生である。にぎやかな音楽が背後に響いている。
「今どき、起きているのは君だけや」
高志は騒々しい受話器に向かって怒鳴った。
「今、京都に来ているの、今夜泊めて。今から行くから、ドアの鍵はずしといてね」
弥生はそれだけ言うと、一方的に電話を切った。

高志はやおらベッドからおりると、弥生のために内鍵を外し、そして、玄関脇の流しで水を飲んだ。
「また家出だな」
誰にいうともなく呟く。高志と弥生は京都の大学で知り合った。同期生であり、卒業してから五年になる。卒業後、弥生は故郷の徳島へ帰り、高志はそのまま京都で就職した。男女の関係を超えて、二人は気の置けない不思議な友達である。

間もなくドアを開けて弥生が入って来た。大きな荷物を背負っている。挨拶もせずに背中のリュックをはずし、どさっと床に置いた。チェックのシャツに綿パン、大きな運動靴、ラフなスタイルである。
「急にごめんなさい」
ひとなつっこく、にこっと笑って、弥生は謝った。

「君はいつもこれや。夜中電話がなると恐怖を感じるわ」
高志はパジャマのまま、弥生が立っている玄関に向かって言った。
「まだ、一人もん? 情けないなあ」
弥生も言い返し、
「そやけど、そのほうが気遣わんで、ここにとめてもらえる……」
と笑った。

「高志、私ベッドに寝るから、あなたは床に寝てちょうだい。固い布団は、私眠れないの」
「注文の多い家出人やなぁ、いつもの事ながら……」
高志は押入れから布団の予備を出して、床に敷いた。こうして家出を繰り返す弥生のために、高志は客用布団一式を用意している。

ワンルーム・マンションの床は布団を敷くと、歩く場所もなくなるほど狭い。高志が布団を敷いている間に、弥生はさっさとシャワーを浴びに浴室へ行った。高志は家出をしてきた弥生に、いつも戸惑いながらそれでも憎めないでいる。

パジャマ姿で浴室から出てきた弥生は、
「高志、ごめんな。長旅で疲れているから、事情は明日話すことにして、私、今夜はもう寝る」
そう言って、濡れた頭にバスタオルを巻いたまま、今しがたまで高志が寝てたベッドに潜り込んだ。

「ぼくも、痴話喧嘩の話なぞ、聞きとうもない」
高志も、床に敷いた客布団に入る。
壁に向かって眠りの体勢に入っていた弥生が、不意にベッドの上から高志を覗き込んで言った。

「間違っても、ここに上がって来ては駄目よ」
「毎度の事や、念を押さなくてもわかってますわ。家出してきた他人の奥さんになんぞ、何の魅力も感じません」
高志はそう言って布団をかぶった。
「そんな心配するくらいなら、どこかのホテルにでも泊まればいいんや」
言ってやりたいが、辛抱する。

弥生は突発的に家出するのか、飛び出してくる時はいつも夜で、その上、必ず高志のところに泊まる。今回で、五、六回ぐらいにはなる。弥生はいつも大きなリュックサックに、小さい頃からのアルバム一式を詰めていて、家での際には必ず背負ってきた。貯金通帳や現金より、想い出が一番大事だと言う。そして、
「もう帰らへん、絶対別れる」
と、きっぱりした口調で言うのだが、いつも最後には古巣へ帰ってしまうのだ。

しばらくすると、すーすーと心地良さそうな寝息が聞こえてきた。恋人でもない男の所へ泊まりに来るのだから、どういう神経なのだろうと、初めは高志も戸惑ったがまるで憎めない。この頃では妹を預かる兄のような気分になっている。

六ヵ月前に来た時は、目を真っ赤にして大きな眼帯をかけていた。夫婦喧嘩の際、顔を殴られたらしい。眼帯を外した目の周りはない出血で紫色に変色していた。その時も、
「あんな男の所には、二度と帰らない」
と、息巻き、散々悪態をついていた。弥生は、一日目は高志の部屋で終日眠り込み、二日目も旦那の愚痴をこぼすかと思ったが何も言わず、またぐっすりと眠っていた。三日目、高志が会社から帰ると、部屋はきれいに片付けられ、掃除がしてあった。

食卓にはおでんの用意と、―泊めてもらったお礼です―との置き手紙。弥生も荷物もきれいに消えていた。四日目には、弥生は徳島から、電話をしてきた。弾んだ声であっけらかんと言った。
「ありがとう。また行くね」
高志はなんだか肩すかしを食らったような気分になった。


 
 

マリーゴールド (2)

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月25日(木)14時43分17秒
編集済
 

高志も、床に敷いた客布団に入る。
壁に向かって眠りの体勢に入っていた弥生が、不意にベッドの上から高志を覗き込んで言った。
「間違っても、ここに上がって来ては駄目よ」
「毎度の事や、念を押さなくてもわかってますわ。家出してきた他人の奥さんになんぞ、何の魅力も感じません」
高志はそう言って布団をかぶった。


「そんな心配するくらいなら、どこかのホテルにでも泊まればいいんや」
言ってやりたいが、辛抱する。
弥生は突発的に家出するのか、飛び出してくる時はいつも夜で、その上、必ず高志のところに泊まる。今回で、五、六回ぐらいにはなる。弥生はいつも大きなリュックサックに、小さい頃からのアルバム一式を詰めていて、家での際には必ず背負ってきた。貯金通帳や現金より、想い出が一番大事だと言う。

そして、
「もう帰らへん、絶対別れる」
と、きっぱりした口調で言うのだが、いつも最後には古巣へ帰ってしまうのだ。
しばらくすると、すーすーと心地良さそうな寝息が聞こえてきた。恋人でもない男の所へ泊まりに来るのだから、どういう神経なのだろうと、初めは高志も戸惑ったがまるで憎めない。この頃では妹を預かる兄のような気分になっている。


六ヵ月前に来た時は、目を真っ赤にして大きな眼帯をかけていた。夫婦喧嘩の際、顔を殴られたらしい。眼帯を外した目の周りはない出血で紫色に変色していた。その時も、
「あんな男の所には、二度と帰らない」
と、息巻き、散々悪態をついていた。弥生は、一日目は高志の部屋で終日眠り込み、二日目も旦那の愚痴をこぼすかと思ったが何も言わず、またぐっすりと眠っていた。三日目、高志が会社から帰ると、部屋はきれいに片付けられ、掃除がしてあった。
食卓にはおでんの用意と、―泊めてもらったお礼です―との置き手紙。弥生も荷物もきれいに消えていた。四日目には、弥生は徳島から、電話をしてきた。弾んだ声であっけらかんと言った。
「ありがとう。また行くね」
高志はなんだか肩すかしを食らったような気分になった。


そっと起き上がって、高志は弥生の寝顔を覗きこんだ。長い睫毛が美しい。鼻は少し上を向いているが、唇は厚く情熱的である。じっと見つめていたら、弥生の目尻に涙の跡が一筋あるのを発見してしまった。枕にも雫が滲みになっている。高志は見てはならぬものを見たような気がした。思わず弥生の頬をなでようと手を出したが、あわてて引っ込めた。触れれば、何かが崩れてしまいそうだった。


それから、高志は眠れなかった。
高志にはまだ恋人といえる相手はいない。京都室町の繊維問屋に就職し、職場では多勢の女性に囲まれているが、気に入った女性には会えなかった。職場で一緒の女性の多くは、結婚を目当てに就職している。それがあからさまに態度に出ている。高志は魅力を感じなかった。
大学時代、文芸サークルで寝食を共にし、男も女もなく芸術論を戦わせた。あの納得の行く会話のできる女性には、そうは簡単にはお目にかかれない。


高志は仕事に没頭し、疲れた頭はおびただしい数の本をベッドサイドに積ませた。
学生時代、弥生は将来文壇に打ってでると息巻いていた。小説をせっせと出版社におくりつけていた。高志はそんな弥生を頼もしく思うとともに、彼女の才能を買ってもいた。自分を主張し、表現していく弥生のたくましさに魅力を感じていた。


そんな弥生がペンを折り、徳島でスナックを始めたと知った時は、さすがに驚いた。結婚したとの事だった。が、友人の話によると、未入籍であり、相手の男は働きもせず、弥生の収入で暮らしているとの事だった。大學を出ながら、そんな生活を始めた弥生を両親が許すはずもなく、勘当同然で実家にも帰れない状態だという。何が彼女をそうさせたのだろうか。


高志は、弥生に事情を聞きだすような事はしなかった。弥生が話すまで待とうと考えた。しかし、それからかなりの月日が過ぎている。
学生時代からの、弥生との関わりを思いだしていると、突然、寝返りを打ちながら弥生が叫んだ。
「もう別れる。何もかも嫌!」
大きな声に、思わず高志は首をもたげて、ベッドの上の弥生を見た。寝言であった。


弥生は長い睫を伏せたまま、まだ何事か呟いている。唇がもぞもぞと動いている。切なさが高志の胸をいっぱいにした。男勝りでサークルでも中心的存在であった弥生。闊達で、宴会部長と揶揄されるほど、楽しい事には目のない弥生であった。しかし、それからの生き様を考えると、決して運命は弥生に味方しているようには思えない。弥生にふさわしい男はもっと他にいるはずだと高志は思った。


不意に母の手紙を思い出した。
「高志、早くお嫁さんを紹介しておくれ。私のお迎えももうそこに来ているんだよ。早く私を安心させておくれ」
そんな文をしたためて、母は田舎の秋の実りを送ってきた。つややかな秋の夕陽色をした柿、泥のついたサツマイモ、手作りの梅干、そして掌いっぱいの大きな牡丹餅、段ボール箱に詰められた母の心である。


高志の故郷は滋賀県である。七十をとうに超した母は、長兄の家族と暮らしている。
「好きな人を選ぶんだよ。好きな人とならどんな苦労も我慢できる」
親同士が決めた結婚で、母は苦労した。ぼんぼんで育った父は外に女を囲い子どもまで産ませた。何町歩もある田畑を母に任せて、遊興三昧をしたのである。その父は六十歳を目前にあっけなくこの世を去った。家督は長兄が継いだ。それが田舎のしきたりである。


しかし、農業を嫌っていた長兄は、家督を譲られると母がこなせるだけの、楽しみ程度のわずかな田畑を残すと、後はきれいさっぱり売却してしまった。その資金を基に、田舎ではそこそこ大きいスーパーを始めた。兄嫁の意向も大分働いたらしい。売ったのがわが子とはいえ、先祖伝来の田畑を売られてしまって、母の嘆きは深かった。母は悔しい気持ち、辛い気持ちを、連綿と綴って高志に送りつけてきた。


それだけでなく、深夜、長兄の家族が寝るのを見計らって電話をかけてきた。押し殺した声でながながと愚痴をこぼしたのである。
サラリーマン生活が身についた高志は、故郷へ帰るわけにもいかず、ただ、母の言い分を聞くだけだった。それが精一杯の親孝行だったのである。
「兄貴のいうとおりにしといたほうがいいよ。それがお袋の幸せにつながるから」それだけを繰り返して言った。


高志は母の事を思い出しているうちに次第に眠くなってきた。ベッドの上ではまだ夢の中で、弥生が何事か争っている。今回は、大分夫婦関係がこじれているらしい。





 

マリーゴールド (3)

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月25日(木)14時40分3秒
編集済
 



翌朝十一時頃、高志は目覚めた。弥生が、朝食の準備をしている。ベーコンの芳ばしい匂いが、高志の鼻先をかすめていく。
「なかなかいい主婦しているなぁ」
「でも、家ではしないのよ。彼、ベーコンを食べないの。だから、朝は珈琲だけなの」
「変わった男もいるんやなぁ。そんな男とくっついている女も変な奴や」


「ほっといて頂戴。人のプライバシーには口出ししないの!」
弥生が口をとんがらしている。
「家出人のくせに、態度がでかいぞ」
高志は言いながら、パジャマのまま食卓についた。
「今日、琵琶湖へ一緒にいかないか。仕事でいくんやけど、車でいくからドライブがてらにどうや?」


「うん、気晴らしにいいね」
「琵琶湖の西にあるスーパーの商品リサーチや。祭日だから、わが社の製品がどの程度注目を集めているのか、この目で見ときたいのでん。客に混じってちょっと見とこうと思っている」
「高志、まあまあ商売人しているのね。仕事の虫になっている……」
「まあな、男は仕事ができてこと、男だからなぁ。そのうちにぼくも扶養家族をやしなわんといかん時がくるからなぁ」
高志は言ってしまってから、しまったと思った。弥生の旦那に当て付けを言ったようなものである。


「結婚するの?」弥生が聞いた。
「いや、お袋にせかされているだけや。男にも年頃や旬があるらしい。それを逃すと一生独身やと脅かされた。今は男が余っている時代らしい」
弥生が大口をあけて笑った。
「でも、高志はいいお婿さんになれるわ。女の人にやさしいから」
弥生の目がどこか淋しげである。高志は胸が痛んだ。
「今頃の琵琶湖はきれいなんや。弥生が一緒やとなおさら楽しい。また、学生時代みたいに文学の話でもしよう」


「わたし、文学なんかとうに忘れた」
「なんや、もうはじまったんかいな。都合の悪いこと聞かれたら、忘れた振りする癖……」
高志の言葉に、弥生もつられて笑った。


食事が済むと、二人は高志の車で琵琶湖へ向かった。琵琶湖の湖西、国道百六十一号線は祭日だというのに案外空いている。
湖の上に広がる空は透きとおるように蒼い。湖面は優しくおだやかで油を流したようである。銀色に白く光って見えた。
琵琶湖大橋のたもとの大手スーパーで、商用を済ませた高志は、白髭神社まで車を駆った。広島の安芸の宮島を思わせる風景である。素朴な鳥居が琵琶湖の中に両脚を浸けている。その向こうに湖東の山々が横たわっていた。国道を挟んで、山手に神殿がある。神殿はこんもりと鎮守の森に囲まれていた。社殿は古くなかなか重厚なつくりである。
じっと湖水を見つめている弥生に、高志は語りかけた。


「ここは、ぼくの心が一番落ち着く場所なんや。あの向かいのなだらかな山々が、夕方には墨絵のような風景になる。まるで、仏様がこちらをむいて、横たわっているように見えるんや。心が和むよ。心がやさしくなっていく。このゆったりとした悠久の時と広がりを何かで表現したいと思い続けているけれど、未だに果たせないでいる……」
「ほんとうに、こんなにゆったりした風景をみるのは、私も久しぶり。京都の寺社巡りをした時の気分とは、また違うわね」
高志は、弥生が琵琶湖の風景を気に入ったようなのがうれしかった。


「旦那に、まだほれているのか」
唐突に切り出した。
「夫の話はやめとくわ。こんな時に思い出したくもない。高志も無粋ね」
弥生はそう言って、砂浜に向かって歩き出した。
「こんなゆったりした風景に会うと、悩んでいるのが馬鹿みたいに思えるわね」
高志にいっているのか、自分に言っているのか、弥生がぼそぼそつぶやいた。高志も弥生の後に続いて砂浜におりた。弥生は湖東の山々を眺めている。学生時代より少しふっくらした弥生の後ろ姿がそこにあった。


高志の実家は白髭神社から少し北に行った集落にあった。
「いらっしゃい。ゆっくりしていってくださいや」
かぶっていた手ぬぐいを頭からはずしながら、高志の母は愛想良く言った。髪はもう半分ほど白くなっている。皺だらけの手で、盆にお茶と柿のむいたのを添えてだしてくれた。
「どこから見えました?」
高志の母の問いかけに「徳島です」と答えて、弥生ははにかんだ。


「急に京都へ来たものですから、懐かしくて久しぶりに高志さんにお会いしたのです。学生時代が懐かしくて……」
「京都もよろしいけど、琵琶湖もよろしいやろう」
母の言葉に弥生はゆっくり頷いた。
「とても心が和みますね。空は蒼いし、空気は澄んでいるし。それに雲も真っ白で。もっと早くに滋賀県をしっておけばよかったと後悔しています」
「今からでも遅くないですよ。ちょこちょこ遊びに来てください。高志は口数は少ないですが、気は優しい子ですから。親の私が言うのもなんですが……」


高志の母はにこやかに、弥生の目をじっと見つめた。その目に戸惑いながら、弥生は出された柿を口にほうばった。
縁側の前は畑になっている。茄子や大根の列が続いている。畑を囲むように、茶の木が植えてあり、それが生垣の役割をしていた。畑の隅に花を植えてあるところがある。菊やコスモスの花が満開である。濃い紅紫のコスモスが、時折吹いてくる風に群れごと揺れていた。背丈の低いマリーゴールドが植えてある。卵の黄身のような、深みのある黄色が秋の陽射しの中に弾けていた。眩しいほどの群れだ。茄子がたわわに実っている。全てが紫色だ。紫紺の茄子を支えている軸や幹までが紫色なのを発見して、弥生は嬉しく新鮮な気持ちになっていた。


高志のマンションの段ボール箱に入っていた数々の野菜は、ここから送られてきたのだと弥生は知った。じんと胸にせまってくるものがある。思わず立ち上がると、茄子の畑に近寄った。涙を高志に見られたくなかった。
しばらくして、高志の母が、箱いっぱいに大根や茄子や柿を入れて持ってきた。
「これを、宅急便で弥生さんのお家へ送っておあげ。こんな野菜、なんもめずらしゅうはないけど」
そして弥生に向かって言った。


「農薬を使うてないので器量は悪いけど、味は保証しますよ。私の楽しみは野菜をつくることでね。子どもたちが一人前になった今、これが私の子育てになりました」
にっこりと微笑んだ顔が高志にそっくりである。手が土で汚れている。手の皺の中にも土が入り込んでいる。
「こんな息子ですが、どうぞよろしくお願いします」
三十前の男なのに、親の前では小学生の子どもと同じ扱いである。高志は母の言葉に苦笑しながら、箱を受け取ると車に向かった。


二人は挨拶もそこそこに、高志の家を出発した。村道の真ん中で曲がり気味の腰を、手を添えて伸ばしながら、高志の母は二人の乗った車を見送っていた。
弥生は、高志の母が点のように小さくなってもまだ、後部に向かって手を振っていた。高志の耳には、弥生に聞こえないように小さい声で囁いた母の声が残っている。「良さそうな娘さんだね。お母さんは気に入ったよ。大事にするんだよ」
まなじりを下げてうれしそうに言った。そんな母に「人の嫁さんだよ、ただの友達だ」と言えず、高志はごまかし笑いをしただけだった。



マンションに着くと、急に弥生は徳島へ帰ると言い出した。
「夜行列車で帰る」
有無を言わさぬ響きがあった。準備をしている間中、怒っているようだった。野菜を宅急便で送らずに自分で持って帰ると言う。
リュックサックに、高志の母から貰った野菜を詰めている。リュックサックにはいっていた自分のアルバム十数冊は、段ボール箱に入れ替えた。それを徳島の自分の家に送ってほしいと高志に言う。


そして、リュックサックを背負い、まるで戦後の買い出しだと笑った、うれしそうにはしゃいでいる。こんなに陽気にはしゃいでいる弥生を見た事がない。
すっかり支度が整い、玄関で靴を履いた後、弥生が手を出した。
「高志、有難う。わたし、元気が出たから帰るわ」
高志は何も言わずに弥生を見つめた。握手の手を出す代わりに言った。


「帰るのやめろよ」
沈黙が流れた。弥生の大きな瞳が凝視した。長い沈黙の後、弥生は爪先立って、自分の唇を高志の唇に押し付けた。はなびらがそっと触れたような軽い口づけだった。
高志は弥生を抱いた。弥生はその手を静かに解き、無言でドアを開けて出て言った。
秋の実りでいっぱいのでこぼこのリュックサックが背中で揺れていた。



高志は徳島の弥生に、宅急便を送る事が出来ずにいた。十数冊のアルバムの入った段ボール箱はベッドサイドで、主の現れるのを待っている。
弥生が高志の母から貰い、花瓶に指していったコスモスは枯れ始めたが、マリーゴールドの花はまだ生き生きと咲いている。
それは高志の部屋の中に、日溜りのような温もりと色彩を与えていた。



 

  

 投稿者:    投稿日:2008年 9月23日(火)16時43分31秒
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役員でござる (1)

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月23日(火)15時57分0秒
編集済
 

ピーンポーン。玄関のチャイムを押す。誰も迎えに出てこない。
毎度の事ながら、うちの家族はぼくをないがしろにしている。いつものようにちょっとむっとしながら家にはいる。
午後八時、やけに家の中がしんとしている。尋常ではない。茶の間に入る。小学三年の息子三人があごだけをテーブルにのせて座っている。目だけでぼくにあいさつをした。


「どうしたんや、皆、青白い顔して。まるでオバケやないか」
息子たちは三つ子である。名前を大、忠、翔と言う。いつも今時分はくんずほぐれず子犬のようにじゃれていて、テレビの音も聞こえない。もちろんチャイムの音も掻き消されてしまう。この子犬たちが亀の子のように首だけ三つならべてぼーっとしているのだ。
長男の大(だい)が言った。


「お母さんが、また当たったんやって、そやから寿司来るの待ってるんや」
「お父さん、今年もうちは店屋もんが多なるでぇ、気張ってや」
次男の忠(ちゅう)が女房の口癖そっくりに言った。
「腹減って死にそうやぁ。それに明日からぼく、もう学校いきとうないわ」
三男の翔(しょう)がむくれて言った。当たったのは宝くじではない。学校の役員である。


「そりゃ、しゃーないで、お母さんはお前らのために役員もろたんやから・・・・・・」ぼくは教育的配慮をして息子らにそう言った。が心の中では仕様のない奴やと思った。今日は学校のPTAの役員選挙の開票日であった。学級委員が決定される日なのである。
「今年は絶対断るわ。だって二年も続けてしたんやもの」
「あんな忙しいのは一回でええやろう、そろそろ坊主らの成績も気にせなあかんで」


ぼくもアドバイスしておいた。ああ、それなのにどうしたんや、断らんと引き受けてしもたんかいな。
「お父さん、お母さんなぁ、今年はどえらい役当たったみたいやで。なにせ、あの電話もう二時間もしゃべったはるもん」
翔が口をとんがらせて言った。
「お前ら、お通夜みたいな顔しとるぞ、元気だせ。お母さん、張り切ってるんやから」
ぼくは萎える心を隠して息子たちをなだめた。


「寿司は何時に頼んだんや、遅いやないか」
「お母さんが役員に当たって、お寿司とる家が多いんとちがうか、そやし遅いんや」
大が大発見をしたような目をして言った。
「お母さんが役員したら、ぼく学校でいたずらできんようになるんやで。先生がすぐ、そんな悪さしてたらお母さんに言いますよっておどかすんやもん」
「それに、原口翔の母です。役員してます、言うて、わざわざ教室へきて先生に挨拶するんやで、派手な服着て」


「ぼくとこは、大が女の子いじめてへんかって、クラスの友達に聞くんやで、格好悪いわ」
三人は口々に文句をたれる。
「お母さん、授業中でも覗きに来るから、おちおち勉強もしてられへん。後ろ向いてしゃべったりしてたら、窓から手のばしてごつんと頭どつくんや」
一卵性の三つ子なので、みな同じ顔をしているように見える。父親のぼくでさえ時々見間違えるほどだ。しかし、女房は腹を痛めただけあって、しっかり区別している。ぼくはつくづく感心している。


「どこで区別してるんや、教えてぇなぁ」
拝み手で女房に頼みこんだことがある。
「企業秘密やから、教えられん」
にべもなく、冷たく返された。
息子たちにやさしく、夫に冷たい女房である。
息子たちは女房に似て、ちょっと小太り気味である。それにやかましい。一人が喋りだすと、負けじとばかり残りの二人もまくしたててくる。男も三人よれば姦しいものだと男の子の三つ子を持って初めて知った。


「あら、あなたお帰りなさい」
電話を終えた女房の明るい声。
花柄のワンピースの裾を翻して颯爽としている。髪にもウエーブがかかって別人のようである。
「小学校の役員があたってしまったんよ。うちは三人学校にお世話になっているから、役員は三回せなあかんのやって言われて、わたし断りきれんかったの。すごいよ、今年教養部長が当たってしまったんよ。阿弥陀くじでぇ・・・・・・。十三人の頂点なんよ。わたし、やれるかな、部長なんて。くじ運いいから、宝くじ買ったらって、みんなに勧められたわ」


部長だとかトップだとか、なんだかあてつけがましい。こっちの役職と比べたら、月とすっぽんである。
まあ、しかし、女房は明るくしていてくれたほうが、こちらとしては安心である。たとえ食事が少々遅くなろうと、電話代がかさもうと学校へ行っているなら安心である。
「まあ、がんばってや。これからいろいろあると思うけど、息子らのためやしなぁ」
この二年間、役員をしてのあれこれを女房に思い起こさせるつもりで言った。


「良かったわぁ、うちはあなたに理解があるから、役員させてもらえる。それに気軽に家事も手伝ってくれるし、助かるわ。ほんまに有り難いことやわぁ。ええ旦那さんでよかった。みんなもあなたの事褒めてはったわ」
てんで、ぼくの思惑など通じていない。女房はこれからの一年を夢見てるんるんのようである。ぼくの心は深く沈んでいく。
「お母さん、お寿司まだぁ?」
忠の声が女房の声をさえぎった。


「まだ、来てへんの? 遅いわねぇ、催促の電話してくるわ」
女房はまた電話のある部屋へ引き返していった。ほんま寿司屋は今夜は大いに繁盛しているらしい。




「あなた、今日からわたしの事、妻と思わんといてね」
やぶからぼうに女房が言った。思わず新聞から目を上げて女房を見る。化粧がはげていない。唇も赤い。きちっと洋服を着ている。いつものようにぼくのお古のパジャマなんかを着ていない。ブラウスにもアイロンがかかり、外から帰ってきたばかりのように楚々としている。どうした事か、今まで気付かなかった。ぼくの無関心さ・・・・・・。
「まさか、ぼくのおふくろになるというんやないやろうなぁ」
冗談を言ってみる。女房は乗ってこない。


「妻って、洋服を変えても、髪形変えても気付かないでしょ。でも、人妻やと思ったら、新鮮な気持ちで夫婦できるんと違う?」
なにを馬鹿な事を言いかけて口をつぐんだ。女房は真剣な眼差しで、ぼくを見つめている。矢継ぎばやに言葉出てきた。
「今日ね、PTAの奥さんたちと、文化講座で講演聴いてきたの。それによるとね、夫婦の危機は、お互いに関心を持たなくなるところから始まるそうよ。夫が食事しながら新聞広げていたり、テレビに釘付けなのは、もう妻に飽きている証拠なんですって。


ぼくは悪戯をみとがめられた子どものように思わず新聞を傍らの椅子の上に置いた。そしてそっと、右手の箸を豚を型どった箸置きの上に置いた。
「そんなことはない。ぼくは充分、あんたに関心あります」
何を習ってくるねんと心の中で思いながら、おそるおそる女房の反応を見る。妻は真剣そのものである。
「わたし、目覚めたの。今まで良い妻でありすぎたのよ」
どこが?と、言いたいのをじっとこらえる。


「わたしだけがしんどい目して、三つ子を育ててきたみたい。子育て以外の自分の楽しみみつけないといかんのよ。そうでないと年老いた時、寂しくて路頭に迷うって。妻に関心のない夫との老後って地獄なんですってよ。わたし達もそうなりそうでしょ!」
女房はぼくが置いた新聞をじっと見た。新聞を女房の見えない所へ置けば良かったと後悔する。


「PTA活動すると、なかなか勉強になりますなぁ。しかし、ぼくも思っていたんや。あんたの老後はぼくがちゃんと面倒見る。定年退職したら、あんたと映画見たり、旅行したり、楽しい事いっぱいしようと、あれこれ考えてます」
ぼくは、定年退職した田中さんを思い浮かべながら言った。田中さんは退職した日に、奥さんから離婚をいいだされておろおろしていた。四十年間、家族のために働いてきたのに、なんで離婚されないかんのやと、嘱託になった職場の先輩に問われて、答えていた。


「自分は仕事第一で、家庭は第二の生活でした。自分は餌を運ぶ親鳥に過ぎなかったのです。妻はこどもが鎹という夫婦の生活に飽き飽きしていたらしいです。退職を機に、これからは一人の女として、人間として生きていきたいと言い出しました」
田中さんがいくらなだめても、駄目だったらしい。奥さんは今までの田中さんの奥さんに対する無関心さを盾に、離婚の決意を翻さなかったという。
うちは息子らが小学三年生である。女房がそんな事を言い出すとは、ぼくは露ほども思わなかった。


女房はPTAの 役員をして、楽しそうに着飾って外出していたのである。だからぼくは安心しきっていたのだ。日曜日にぼくにどこかへ連れて行けとせがむこともなくなった。楽になったと秘かに喜んでいたのである。
突然女房が明るい声で言った。
「まあ、あなたって、やっぱりよその旦那さんとはちょっと違ったのね」
女房の声に安堵感が漂っている。
「わたしの事、そんなに考えていてくれるなんて。若い時の情熱そのままなんて、うれしいわぁ。あ、な、た」


急に変化すると、ぼくのほうがびっくりしてしまう。
「講演聴いた後で、みなさんと喫茶店でおしゃべりしていたら、わたし、不安になってね。家に帰っても落ち着かなかったのよ。家庭内離婚している人の話聞いたり、別居している人の噂を聞くとじっとしてられへんかったわ。浮気や不倫の話もしてはったのよ。あなたは大丈夫やね。そんなにわたしのこと考えてくれてるんやったら。浮気してませんよね!」
浮気の事まで女房に念を押されていたら世話はない。


「うちは、あんたが家庭を上手に切り盛りしていてくれるから、安心してぼくが働ける。坊主らはええ子ばっかりやし、あんたは健康やしいう事なしや、これからもあんじょう頼みまっせ」
ぼくは思いつくだけの、気持ちの良い言葉を女房に浴びせかけた。半分やけくそである。
「ビール、もう一本つけましょか」
女房は重そうな尻にもかかわらず、軽くすっと立って、キッチンへ行った。鼻歌を歌いながら冷蔵庫を開けている。ぼくはほっと胸をなでおろした。




 

役員でござる (2)

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月23日(火)15時55分55秒
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翌日、帰宅して玄関を開けると、女房の叱る声がぼくを直撃した。
何事かと茶の間を開けると、大、忠、翔の三人坊主が、正座をさせられている。大分長く叱られていると見えて、尻をもぞもぞさせている。痺れがきれているらしい。三人とも女房に似て小太りなので正座が苦手なのである。
「この成績見てください。二年生の時とちっとも変わってません。「よくできる」がひとつもないんですよ。ほんまに」


女房がお帰りなさいの代わりに、三通の通信簿をぼくの目のまえでひらひらさせながら言った。なんや、成績のことかとほっとする。昨秋、この三人ぼうずが徒党を組んでいたずらをした。近所の爺さんが丹念して育てた柿の木に登り、柿の実と実を全部落としたのである。爺さんは柿を取る手間が省けたとは言ってくれたが、婆さんはこどもの躾がなっていないとじくじく文句を言い続けた。


「お母さんは、今までは成績はどうでもい、やんちゃだけはしたらあかん、人に迷惑かけたらアカン言うてたのに。「よくできる」がない言うて、今日は急に怒り出すんや」
大が口をとんがらせて早口でぼくに告げた。
「ぼくら、いままでどうり、がんばってぜーんぶ「できる」でそろえたんやで。これだけでも大変やったのに・・・・・・」
忠が涙をためた目で訴える。


「吉田くんは[よくできる]が十三個あったんやってお母さんにおしえてあげたら、急に怒り出したんや。吉田くんは塾行ってるもん、ぼくらより賢いのはあたりまえや。なあ、お父さん」
翔が抗議した。
「そんなら、翔も塾行ったらよろしい。みんな、塾へいったらよろしい」
女房が三人を順に睨みつけて言った。


「ぼくら、三人とも塾に行ったら、ぎょうさんお金かかるでぇ。塾代三万円やいうて吉田くん自慢しとったもん。ぼくら三人で合計九万円や、すごーい」
翔が言った。こういう計算は速い。なんでこれが、成績に結びつかんのやろう。不思議なこどもらである。翔が塾へ行きたくないために、金の事を持ち出したが、藪蛇であった。
「あんたらが、賢うなるんやったら、お金いくらでも出します。お父さんかて喜んで出してくれはります。こどもはお金の心配せんでよろしい。成績の事心配しなさい。いつから行くんです!」


毅然とした態度で女房が言った。
息子らは半分泣きべそをかいている。ぼくもあんまり勉強は好きでなかった。ぼくは男は度胸、頭や顔ではない、と思っている。
「よしよし、お母さんとお父さんとでよう相談しとこう。結論は明日にしようやないか。今日はお父さん良く働いたので、お腹空いて死にそうなんや。お母さんのおいしーーーいご飯を食べさしてもらいましょか」
息子らの顔がぱっと明るくなる。これで放免されるのが見えたのである。


「ほんなら、邪魔せんように自分の部屋へ行っとくわ。お母さん、先にお風呂入っていいですか」
「お父さん、今日のお母さんの肉じゃがとびきり美味しかったで」
「お茄子のたいたんも最高や。お父さんの好きなんばっかりやで」
くちぐちに息子らは言う。我が家に喧しさが戻ってきた。げんきんなところはしっかり女房に似ている。変わり身の速いこどもらである。しぶしぶ女房は子どもたちに風呂に入る事を承諾した。


昨日の事もあるので、ぼくはむかいあって女房としっかり話すことにした。ほんとうのところ、今日はナイターを楽しみに急いで帰ってきたのである。しかしそんな個人的な楽しみは、この際二の次、三の次にしなければならない。
「あんた、PTAの役員してから、こどもに対する教育方針変えたんか? 今まではこどもは元気印が一番やいうてたやないか」
女房の入れてくれたお茶をすすりながら、ゆっくりとやさしく切り出す。


「いっぺんに三人もこどもさずけてもろて有り難い、健康が一番やいうて、神さんや仏さん、キリストさんに感謝してたのに。どこでどう気が変わったんや」
「・・・・・・・・・・・・」
女房は答えない。その代わり、ぽろっと涙をこぼした。ぼくは飛び上がった。思わず声がうわずる。身体は肝っ玉かあさんみたいであり、お不動さんのような女房が泣くとは。ぼくが死んでさえ泣くとは思われない豪気な女房である。
「あなたにもしもの事あったら、わたし達生きていけますか? 生活の保障してもらってますか?」


この間、ぼくに聞いてきた。つまり、ぼくが会社でかけている生命保険の具体的な明示を迫ってきたのである。そんな女房がこどもの成績ぐらいで、それも小学三年生の成績で泣くとはおどろきである。
「子どもの将来は小学校の六年生で決まるって吉井さんが話してはったの」
吉井さんとはPTAの会長である。旦那は大學の先生とかで、役員の間では一目置かれているらしい。私学などの情報に詳しいようである。以前女房が話していたので覚えている。女房の交友関係にも熟知していないと夫たるもの家庭をひっぱっていけません。


「塾へはほとんどの子が通っているらしいのよ。そのうえに家庭教師をつけているご家庭もあるそうで。それなのにうちのこどもたちったら。あの子達の将来を考えたら、わたし・・・・・・不安になりましたの。子どもたちがかわいそうでお先真っ暗になったんです」
丁寧な言葉を交えて話す女房。成績ごときで怒っているほうがお先真っ暗、と言いたいのをぐっと我慢する。ここは、丁寧に女房を説得しておかないと、明日の生活に響く。突然教育ママになられて困るのは子どもよりぼくのほうである。この上、家事の手を抜かれてはたまらない。何をどうしたものかと考えていると、統計課のインテリ脇田の顔が浮かんできた。


「国立大学出たのが、うちの職場にいる。これが意外に孤立しているんや。仕事はできるが、人の心が読めん。小さい時から勉強ばっかりしてきて、友達と遊んどらんからな。統計とかグラフとか、一人でするものさせといたら、どこまでもしよる。しかし、人とあれこれ考えて仕事するという事ができん。共同作業ができん。その点、少々国立大学より下と言われている大学出た者でも、友達の多い人間は考える事に広がりがある。面白い事を考えつく。実際役にたつんや。男は学校の成績だけでは給料はもらえんもんや。


我が家の腕白坊主は、三人兄弟と言うだけで立派なグループや。指示されんでも自分らで遊びよる。今の夜の中指示待ちの子どもが多いという事やが、うちの子らはなかなか行動的やで。腕白やけど自立しとる。ぼくは充分満足しているで。前途洋々たるもんや」
女房がほくの目を見ている。もう尊敬の眼差しである。感激して頬がほてっている。
「わたしもそう思ってたんですけど。吉井さんたちからあれこれ聞いて、そこへあの通信簿でしょ。これはわたしの責任、あなたに申し訳なくって」


自分の成績表を思い出せ、と言いたいが、夫婦間の平和を保つために、ごくっと唾と一緒に飲み込む。
「情報を仕入れるのもほどほどにしといた方がええで。親がじたばたしても始まらん。子どもの人生は子どもが自分で開いて行くもんや」
説教じみて嫌になる。ぼくは説教するのもされるのも嫌なのである。心はテレビをつけたい。しかし離婚した田中さんの憔悴した顔が目の前にちらつく。野球への思いをじっと我慢した。


「話は変わるけど、きのうからあんたが着てるその洋服、よう似あうなぁ。六つは若返って見えるな。どこで買うたんや」
女房に世辞を言ってどうなるものか、と思う。が、勢いづけに言ってみる。六つと言うところが我ながら心憎い。
女房の顔に笑みが戻った。笑うとなかなか可愛い顔をしている。お不動さんを取り消したいくらいだ。


「あなた、今日阪神勝ってましたよ。そうそう、楽しみにしてはったナイターやったのに。もう終わってたら、ごめんなさいね」
女房はリモコンのスイッチを急いでオンにした。手が白魚のようだとは、なんぼなんでも厚かましく言えない。
阪神が勝っている。ぼくはすぐにテレビの画面に吸い込まれていった。とても幸せな気分である。


テレビを見ながら肉じゃがをつついていると、女房が高島屋の袋を持ってきた。暑苦しいのにぼくの横に座って、嬉しそうにがさがさと包みを広げた。幾重にも包んだ薄紙の中から、薄い透けたピンクのネグリジェが、悩ましく腰を振って出てきた。ぼくはどっと疲れを感じた。




 

  

 投稿者:    投稿日:2008年 9月23日(火)15時54分38秒
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 投稿者:    投稿日:2008年 9月22日(月)04時40分55秒
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五位鷺 (1)

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月22日(月)04時34分44秒
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  高野川河畔の桜並木は満開の時を迎えていた。
早朝、散歩する人の影もどんどん多くなっている。一人歩く人、少し間を開けて歩く夫婦、軽やかにジョギングしながら走る若者。
いずれも皆、薄紅に続く桜並木を見上げながら、感嘆している。


解けた片方のウオーキングシューズの紐を踏んで足がもつれたのと同時に、ポケットの携帯電話が鳴った。後から来る人の邪魔にならないように、堤寄りの石のベンチに腰掛けると受話器に耳をあてた。
「もしもし、榮子。ねぇ、緊急に今夜集まって欲しいんだけど、時間とれない?」
元気な美佐子の声が飛び込んできた。


「朝早くからどうしたの?」
「これから、二人に電話をかけなくっちゃならないから、集合の時間だけ言っとくね」
美佐子は待ち合わせの場所と時間を告げると、そそくさと電話を切った。いつもなら、あれこれ長話をする美佐子であるのにと思いながら、榮子は解けたウオーキングシューズの紐を結び直した。


しばらくそのまま御影石で出来た椅子に座って、緩やかに流れる高野川に見入る。桜の花びらが一枚、ひらひらと、風もないのにおちてきた。
「緊急に……」そう言った美佐子の言葉が蘇ってきた。いつにない厳しい雰囲気だったような気がしてくる。四月になったばかりの早朝の空気は、肌に冷たく感じられた。


一時間の散歩を終えて、家に帰りつくと、榮子はすぐにシャワーを浴びた。花冷えとはいえ、一時間も歩くと少し汗ばむ、お気に入りのボディソープをたっぷりと泡立てて、襟足から胸にかけてなじませた。榮子は時間をかけて自分の体に匂いを含ませるのが好きだった。
久しぶりに四人で会えるのが、胸をときめかせた。しばらくお洒落をしてでかけていない。


おんな四人は親友とは言え、生活や気分の崩れを見せると、とたんに叱咤の言葉が飛んでくる。
いつまでもお洒落な仲間でいようね、というのが合言葉だった。
シャワーをしながら、夜に着てゆく洋服のコーディネートを考えている。普段ならそんなうきうきした気分がもっと高揚するのに、美佐子の緊急と言う言葉が蘇ってきて、心が二つに切り裂かれたように冷たくなる。


美佐子は出版社に勤めているので、態度も言葉もきびきびしている。無駄が無いと言えば空疎な感じがしないでもないが、内には情熱を秘めているタイプで、仲良し四人組をひとつにまとめているリーダーである。
榮子はカルチャーセンターで、週2回、アートフラワーを教えていた。あとの二人は、家庭婦人におさまっていて、子育てや夫の世話に余念がない。


榮子の時間のほとんどは、この教室のための準備で占められている。とりわけ新しい花の創作は昼夜、榮子の頭から離れない。色合いも斬新なものをと考えると、奥が深い。花びら一枚一枚を真っ白な布から切り出し、染めてゆく作業は、気の遠くなるような作業だが、榮子にとっては至福の時間であった。
シャワーを終えて、自室に戻ると、榮子はパソコンの電源を入れる。メールを点検し、スケジュールを確認する。


春の創作花の展示会が、ゴールデンウィークに予定されているので、この四月は猫の手も借りたいほどの忙しさなのである。創作用に借りてある小さな事務所は、アシスタントの女の子二人を置いて、切り盛りさせている。


学生の時から付き合いのある大沢がデパートに顔がきいて、ディスプレイ用に注文してくれるので、収入の多くはそちらから得ていた。この頃は、安価で実物に似せた花が出回っているので、需要はおされ気味だが、榮子の創作花は、世界に二つとないというキャッチフレーズで、高級嗜好の売り場では人気があった。


夜7時、美佐子が指定した場所に行った。
市役所の隣にある、ホテルオークラ京都の二階、静かなレストランである。美佐子が予約をしておいたのか、河原町通りを見下ろせる窓際に席はこしらえてあった。
美佐子と曉子が先に着いていた。
「あら、袖子は来れないの?」
テーブルセッティングが三人分なのを見て、榮子は尋ねた。


「最初から、三人なのよ」
美佐子が空いた席を見ながら答えた。
「袖子に関する事だから、彼女は省いたの。朝はああいうより仕方がなかったのね。一日中、みんなが心配するといけないからね」
彼女は続けながら、コップの水をぐいと仰ぐように飲んだ。
曉子がそんな美佐子を不安げに見守る。


「袖子ね、キャンサーなの」
美佐子が言った。
「どこの部位?」
榮子は動揺を隠して聞いた。
「子宮」
美佐子が答える。
聞いた二人は押し黙った。
沈黙のあと、美佐子が続けた。
「手術は三週間後、みんなで支えてあげようね」


榮子は「もちろん」と声に出して言えなかった。袖子の顔が思い出されて、胸に込み上げるものがあった。
「早期発見だから、大丈夫よ」
と美佐子が言った。
「うん、大丈夫よ」
曉子が強い調子で言った。やっと、榮子も頷く事ができた。
「これから、煩雑に連絡取り合って、病室覗いてやってね。袖子はあれでも怖がりだから」
「心配ばかりしていても始まらないからね」


曉子の言葉に、やっと普段の気持ちが戻ってきた。それからこまごまとした打ち合わせが始まった。
美佐子が予約オーダーしていた夕食は、魚がメインのコースになっていた。
フルコース最後のデザートが出てきた。かぼちゃの冷たいプディングだった。オレンジ色の鮮やかな表面に、ミントの小さな葉が添えられて、香りがする。
「ねぇ、榮子、大沢さんとはどうなってんの?」
「どうって……」


美佐子のふいの問い掛けに、榮子はどぎまぎしている。
「大沢さんが離婚したの、知ってるわよ」
彼女の目が榮子をとらえる。
「うん、私も知っているわ。でも、私には関係ないのよ」
榮子は答えた。
「あら、てっきり、榮子と結婚するものとばかり思っていたわ」
美佐子の率直な言葉に、曉子が目を見張った。


「榮子、大沢さんとそんな関係だったの?」
「あら、やめてよ。ただの友達なんだから」
榮子は口を尖らせて答えた。
「男ってねぇ、そんなふうには思ってないんじゃない?」
美佐子が曉子と目を合わせながら言った。
「あれだけ、親身なのは普通じゃないわよ」曉子もかぶせてくる。


「いいの、いいの、私には関係ないんだから」
榮子はうんざりという顔をして、デミタス珈琲を口元へ運んだ。
正直、大沢に惹かれる部分はあった。それは既婚者としての落ち着いた大沢に対してであって、離婚してその全てをこちらに向けられてくるのは、少し迷惑だった。
もう少しで五十になる今になって、新しい家庭を持つ気分にはなれなかった。それに、大沢の影には、別の女性がいるような気がしていた。そんな大沢に、のめりこんでいく榮子ではなかった。


「ややこしくならなかったら良いけど、気をつけなさいね」
美佐子は笑った。
「プレイガールの素質はそんなにないと思うから、榮子には」
「あら、あなたにはあるの?」
はすに美佐子をみて、榮子は軽くにらんだ。
「良いわね、お勤めしている人は。華やアバンチュールがあって」
ため息をつくようにして、曉子が呟いたので、美佐子も榮子も声をたてて笑った。
そして、三人同時に、でも袖子は……と呟いて黙ってしまった。




朝、窓を開けると、街道を走る車の音がいっせいに飛び込んでくる。
右から左へ、左から右へ、バイクやバスやトラック、そして乗用車、音を聞いているだけで、どんな種類かわかる。行き交う車が出す音を聞いていると、榮子にはそれが生きている証のように思われてならない。


窓をピタリと閉めると、防音も兼ねているガラス窓の外は、かすかな音に変わってしまう。普段は街道沿いの窓を閉めて、音を遮断してしまうのだが、朝早い時間だけは、窓を開けて部屋に新しい空気を入れる。窓の外には枝を広げた桜の古木が一本、緑の葉を風に揺らせて立っていた。


テラスに出て、ガラスの丸テーブルにすわり、マルボロを出してライターで火をつけた。珈琲と煙草、榮子の毎日の朝の第一歩だった。
袖子の事を考えると、心が沈んでくる。あんなに仲が良かったのに、この頃は夫の話をしなくなった袖子。一人息子の裕太が東京の大学に進学し、夫婦二人だけになったとたん、二人の仲がギクシャクしていた。いわゆる空きの巣症候群だろうと思っていたのだが、根はもっと深いところにあると、ふともらした袖子の言葉がずっと心にひっかかっていた。


そこへ、美佐子からの手術入院の話である。誰にも言ってないけれどと、数日前に袖子が電話してきて、本音を少し漏らした時には、病気の話はこれぽっちもしなかった。そこのところも心にひっかかっていた。
曉子だけが、何事も知らされていないようで、いつものように明るくあっけらかんとしていた。他人の身になって考える事ができるのかどうか、いつもマイストーリーに話の筋をひっぱっていく彼女だった。


女四人、二十代の前半から付き合いだしてほぼ二十五年、大きな揉め事もなく仲良く続いてきた。多少の差はあるものの、そろそろ五十代に差し掛かるそれぞれの坂は、これまでよりももっとも辛い坂になりそうだった。
マルボロを肺の奥深くまで吸い込んで、榮子は街道を行き交う車を見つめた。並木の間を縫うように走る車の群れは、おもちゃをみているようではあったが、榮子に今日の元気を与えてくれた。


「大沢さんがお見えです」と事務所から連絡があり、いつもよりこ一時間早く着くと、応接室で大沢が書類を広げていた。
デパートからの特別注文があり、喜ばせようと急いで来たと、榮子の顔を見るなり言った。
榮子の独創性を尊重したオーダーで、納入は八ヵ月後となっている。売り場の図面や、展示商品などの細かい資料を持ってきていた。図面で確認した上で、現場を見るのが一番良い方法だと結論をだして、デパートへ行く日などを大沢と決めた。


大沢は用件を伝えると、次の予定があるからと出された珈琲も飲まず、そそくさと帰って行った。何をあんなに急いでいるのかと、怪訝な思いをしたが、榮子の心は新しい創作花へと動いていく。
冷めた珈琲を事務所のキッチンへ持っていくと、布地の整理をしていた洋子が言った。
「大沢さん、なんだか元気がありませんでしたね」
「そう?」
気づかなかったふりをして榮子は答えた。


「離婚なさったってお聞きしましたが……」
「うん、そうみたいね。どうしたのかしらね、突然に」
榮子は答えながら、書類を机の上に広げた。
「デパートの新しい売り場の創作花のオーダーが来たのよ。これから忙しくなるわ」
他人のプライバシーには首を突っ込まない、それが榮子のポリシーだった。引き受けるだけのキャパが自分にあれば別だが、自分の事だけで心は精一杯なのに、人の事など考えていられない……それが本音だった。


榮子の忙しくなるわ、の言葉に洋子は叱られたような感じを受けたのか、だまって布地の引き出しを開けて、整理の続きをやり始めた。
榮子はノートパソコンを取り出すと、今まで作った花の資料をひとつひとつ点検する事にした。
入力した創作花の数々を拾い出し、あれこれデザインを考えていると、瞬く間に時間が過ぎる。


「先生、根を詰めると疲れますよ」
そう言いながら、洋子が緑茶と甘く煮た梅干を持ってきてくれた。
「大沢さんの事、心配してあげてくれてありがとう」
さっき、冷たくした事を少し反省して榮子は洋子に声をかける。少し頬を赤らめ照れるようにかぶりを振って、洋子は小声でいいえと答えた。


「袖子がね、入院する事になったの。手術は三週間後、時々病院へ行きたいと思うので、事務所留守にすることがあるかもしれないけれど、その時はよろしくね。留美さんにも言っといてね」
留美は事務所で手伝いをしてくれているもう一人の女性である。今日は子どもが熱を出して休んでいた。


「デパートの花、量が多い場合は、部分仕上げのために何人かパートさんにきてもらうか、外注に出す必要があるかもしれないから、人の配分、心積もりしておいてね」
榮子は洋子に告げた。
「教室はどうなさるんですか?」
「教室は続けるわ。人と接しているのは好きだから」
榮子は答える。


「袖子さん、どこがお悪いんですか?」
「子宮に腫瘍が出来ているので、摘出するそうよ」
そう答えながら、この間の話を思い出した。
美佐子の話によると、袖子の夫の繁樹は、主治医とのインフォームドコンセントの折、子宮を摘出しない方法はないかと言い出し、主治医から奥さんが死んでもかまわないのかと強い口調で言われたらしい。


何を考えてんだかと美佐子は唇をゆがめて言ったが、榮子はあのおとなしい繁樹の顔を思い出して、少し心が痛んだ。妻を思いやっての言葉にちがいないのだろうが、袖子にも美佐子にもその微妙な心の襞は見えなかったのだろう。
「ご心配ですね……」
洋子の言葉に、はっと我に返った榮子は言った。
「万事塞翁が馬よ。なるようにしかならないの。でも医学の発達は凄いから、大丈夫って私は思っているけれど。手術した事がない袖子は気を病んでいると思うのよね」


「ええ、夜も眠れない日が続きますよ。私もそうだったんです」
洋子はそれだけ言うと、続きがありますと言って、在庫室へ戻っていった。




大槻袖子と札の掛かった病室へ入ると、そこには見舞いの花に囲まれた彼女の姿があった。榮子の顔を見るなり、彼女は早口で言った。
「この立派な蘭の花はあなたがくれたことにしてね」
「あら、どなたに対して?」
榮子はからかうふうにして答える。
「意地悪! 夫に知られたくないからなの。実は私の好きな人が蘭を送るって電話してきてくれたの」


少し、頬を染めながら袖子は言った。
「残念でした。これは本当に私が贈ったのよ。ふふふ、遊び心で名前を変えて贈ってもらったんだけどね、お花屋さんに」
榮子は蘭の鉢植えからお見舞いの札を取り上げて袖子に渡した。
袖子は驚いたように目を見開いていた。偶然の重なりに声が出なかったのだった。そして榮子は、はからずも袖子の心の秘密を知ってしまった驚きで、そのあとの言葉が継げなかった。


「今の話、聞かなかった事にして……」
袖子は俯いて、しかし、懇願するような声で言った。
「誰にでも秘密はあるから、誰にも言わないわ」
榮子は、優しげな袖子の夫、大槻の顔を思い浮かべながら、そう答えた。
「退院したら、全てを榮子に聞いてもらいたいの」
「うん、聞くわ。心安らかにして、手術の日を迎えましょうね」
榮子はそれだけを言うと、そっと袖子を抱きしめて、病室を出た。


袖子に蘭の花を贈る彼がいる、それを考えただけで胸が動悸を打つ。あの家庭婦人におさまって良妻賢母そのものと信じて疑わなかった袖子に彼がいる……。
榮子の心がざわついてきた。
袖子の事を考えながら、病院の長い廊下を玄関へ向かっていると、すれ違いざまに「あっ」と声を出した人がいる。玄関へ誘導する廊下に引かれた青い線を見つめていた榮子は、視線を声のするほうへ移した。そこには果物籠を抱えた大槻がにこやかに立っていた。


丁寧に榮子へ見舞いの礼を述べて、大槻義彦は廊下の脇へ寄った。榮子も向かい合う形で義彦のいるそばへ寄っていった。
「袖子は少しナーバスになっているでしょう」
そう言いながら義彦は果物籠に目を落とす。少しふっくらしたかなと思われる顔には袖子を気遣う様子が見えて、榮子はほっとするのだった。
お疲れがでませんように……、それを言うのが精一杯だった。手術のインフォームドコンセプトの折り、医師と大槻のやりとりをこの間美佐子から聞いたばかりだった。しかしそれを問いただす気にはなれなかった。


気がかりだとういう袖子の病状のことを少し話した後、大きなため息をひとつして、義彦は会釈し、病室のほうへ歩み去った。
仕事が手につかないと言った義彦の元気を失った顔。榮子は二人の間に流れている空気がどこかでぎくしゃくしているのを感じずにはいられなかった。
そのまま、自宅に帰る気にはなれなくて、榮子はゆきつけの北白川の喫茶店にはいる。


天井まで届くような大きな植樹がしてある店、緑の館にいるようなきがして、癒される。榮子はウインナー珈琲を注文した。
袖子が思いを寄せている男性がいる……、榮子は自分の心を親友にも隠して来たが、袖子もまたそうであったことに、心が疼いた。
四人、どんなことでも話せるわね、美佐子がそういうたびに心が痛んでいたが、今はその痛みが袖子と共有のものであったことで少しやわらいだ。


誰なのだろうと袖子の周りにいる男性を思い浮かべるが、思い当たる相手はなかった。
ウインナー珈琲が運ばれてきた。
ピンと角を立てて、ウインナー珈琲は、あれこれ詮索する事を拒否するような感じだった。
 

五位鷺 (2)

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月22日(月)04時32分33秒
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デパートの一角を埋める創作花の製作に追われる毎日が続いた。
袖子の事が気がかりであったが、企画書の作成や、素材のデザイン、調達など、時間はいくらでもほしい。榮子が自分の時間さえもけずってそれに没頭している時、病院の袖子から電話が入った。
「会いたいの」
袖子が搾り出すような声で受話器の向こうであえいでいる。


「いいわ。一段落したら飛んで行くからね」
そう答えて受話器を置いた。心がざらついている。夜は約束があった。約束の時間を一時間遅らせても、袖子の病室へ行かねばならない。追い込まれたような気分が榮子を包んだ。
袖子の手術の日、榮子は病室に駆けつけなかった。美佐子や曉子に任せて、デパートの企画会議に出席していたからである。
無事に手術が行われたと、袖子の夫から連絡があった。美佐子や曉子からも、詳細な報告があった。


「病室に蘭の大きな鉢が二つもあったわ」
と美佐子がびっくりしたような声で言った。ひとつは榮子が送ったものだが、もう一つはやはり彼氏から届いたのだと、榮子は自分に対して頷いていた。
「お見舞いの花なら豪華なのがいいわ」
入院を予期していたのか、袖子は皆との食事会の折に、よくそう言っていた。だから榮子も思い切って蘭を送ったのである。病室にいてすこしでも慰められるのは、好きな花に囲まれていることだから。


恋人翔に約束の時間を少し遅らせてくれるように電話してから、榮子は病院へ向かった。切実なか細い声が耳から離れない。初めて病院へ袖子を見舞った時に聞いた秘密がどんな進展を見せたのだろう。その事が関係しているような気がして、榮子の足取りは重くなる。
少し回り道をして、めずらしい果物を少し籠に詰めてもらって、榮子は袖子の個室を訪れた。
病室では青白い顔をして、目だけ大きく見開いた袖子がベッドに横たわっていた。


「榮子、ありがとう」
それだけ言うのがやっとのふうで、袖子が手を差し伸べてきた。その手をそっと握り締めて、それから手の甲をなでた。
「榮子、私離婚するから……」
唐突に袖子が言った。
「麻酔から醒めた時、夫が心配をして覗き込んでくれたけど、私が求めていたのはその顔じゃなかったって、そう思ったの。ねえ、夫の顔をみて、ぞっとするなんて、妻としてもうだめでしょ」


「手術のあとで、気がたかぶっているんじゃない? 落ち着いたら気分も変わるわよ」
「榮子、私わかっているのよ。あなたに好きな人がいること。だから、私の事も分かってくれると思って、こうして話しているの」
病人とは思えぬ強い言葉が袖子の口をついて出てきた。
「私はあと余命いくばくもない事がわかるの。だから、退院したら、残りの時間を悔いなく生きたいの。わかるでしょ、この気持ち」
榮子は言葉を失った。そんなふうには聞いていなかったと、答えたが、そんな事、みなに言うはずがないじゃないのと一蹴されてしまった。


「退院したら、力になってね。離婚はもう決めたから」
痩せた手で、袖子は榮子の手を握り返してきた。
「わかったわ。できるだけ力になるから」
彼女を興奮させたくなくて、榮子はその場をしのぐ言葉をさがした。
「そろそろ、恋人にあう頃でしょ。ああ、榮子が彼氏と会うなぁってわかるの。約束の日が近づくと、あなただんだんきれいになってくるから」
袖子はじっと榮子の目を見て言った。袖子にそんなふうに観察されていたとは、驚きだった。


「相手に妻子があっても、愛されているっていう実感は、女を美しくさせるわねぇ」
袖子は窓の外に目を移して、呟くように言った。
「私も、早く元気になって、彼に会いたい……」
目尻からつうと涙がこぼれた。榮子はその涙を見ながら、袖子の洞察力の凄さに驚いていた。誰にも気づかれずにいるとばかりに思っていた恋、秘密の恋のはずだったのだが・・・・・・。




病院の玄関でタクシーに乗り、榮子は自宅へ戻った。
ベッドの上に用意していた着物に着替える。地模様は頭を垂れた稲穂、地色は裾へいくほど青が濃くなるグラデーション。帯は蒼の名古屋にした。帯締めと帯揚げは薄い卵色、鏡で背中のお太鼓の具合を見ながら、榮子はきちんと着られたことに満足していた。帯の柄は紫露草、花弁の色と帯締めの色を合わせた。


今日の逢瀬には着物で行こうと榮子は決めていた。
秘密の恋、榮子は必ずこれが最後と心に決めて逢いにゆく。次があると思うと、どこか心に隙が生まれる。馴れてくる自分が悔しい。初めて逢ってそして最後、この逢瀬の形に心がざわめく。
鏡の前で、仕上げの自分を見る。口紅の色、頬、耳……。自分で自分を愛おしく思うほど、今日の榮子は美しかった。


車を呼んで、京都駅へ向かう。そして、新幹線の人となった。
指定席に座ると、ウオークマンをバッグから取り出し、イヤホーンを耳にはさんで曲を選び、目をつぶる。
これからの時間を考えると、心も体ももう我が物ではないような心地よい気分になる。逢うまでの時間がきらきらと輝いて榮子の前に海のように横たわった。
新幹線のスピードは百数十キロ。窓外の景色は瞬間の映像を残して消え去る。それは、榮子を、日常から非日常へ猛スピードで連れ去るかのようだった。


新幹線のホームから、エスカレーターで改札口へ向かう。在来線への入り口までくると、彼がそこにいた。目と口元がにこっと微笑む。
言葉を交わさずに、すっと彼に寄りそう。榮子はこの瞬間が好きだった。数ヶ月に一度会うだけなのに、逢えば毎日逢っている恋人たちのように、一瞬にして平安な気分の中にひたれる。


彼の後について人ごみの中を歩く。約束してあったのは美術館。コンコースから表通りへ出てタクシーに乗る事になった。
髪をまとめて襟足の涼しげな和服の榮子に、周囲の視線がさりげなく寄ってくる。それを感じながら、榮子は彼のあとからタクシーに乗った。
右手で上前を抑えながら、座りなおす。彼がバッグを膝の上においてくれた。こういう優しさが好きなんだわと、ちらりと彼のほうを見る。


二人だけの時間が始まった。
美術館での鑑賞の時間は、榮子にとっては至福の時だった。
亡くなった榮子の父は、画家を志した事もあるほどだったが、絵で生活する事は難しいと知って絵筆を捨て、祖父の事業に携わった。
幼い頃、榮子は父に連れられて、美術館へよく行った。祖父には榮子を動物園に連れて行くというのが、父の口実だった。
そんな榮子が絵画好きの男に惹かれるのは、自然の成り行きであった。


海が見えるホテルのレストランで、二人は夕食のテーブルを囲んだ。会話は、美術館で見た、アングルの作品「トルコ風呂」に集中した。裸体を見ても、若いときのように羞恥心はそれほどない。それよりも、描かれている裸婦の体型に自分も近づいているような気がして、そちらのほうが少し心穏やかでなかった。
「今日はね、あなたに重要な話があります」


食事が終わり、デミタス珈琲が運ばれてきた時だった。彼が静かに切り出した。
彼の目がじっと榮子を見つめた。
「しばらくの間、お別れしよう」
突然の言葉に、榮子は息が止まるかと思った。ほんの数時間前には、心ときめかせて新幹線に乗っていたのである。


どうして、どうしと、胸の中で叫ぶが、言葉は口をついて出てはこない。
「別れた妻が、がんで余命幾ばくもないと診断されました。二人の娘を成した間柄です。この3年間、あなたとの事はとても楽しい時間だった。これで終わりという事ではなくて、妻の最期を看取る時間をぼくに欲しいのです」
榮子に相談すると言うふうでなく、相手はもう決めた事を淡々と伝えてきた。ここに来て、彼の妻の事情を聞くことになろうとは。


榮子は黙って彼の言葉を胸におさめていく。言葉を繋ぎたくなかった。何を言ったところで、必死で命の火を灯している女性にはあがらえない。
榮子は黙って頷いた。目にうっすらと涙が滲んできたが、それは相手の妻に対する同情や憐憫でなく、我儘が言えない自分に対しての涙だった。
波が静かに引くように、榮子の心のざわめきは徐々におさまっていく。


食後、夕暮れの山下公園を散策した。
海には船、公園には仲むつまじいカップルたち。「赤い靴」の少女の像が、榮子の心を濡らした。
幾度、この公園をこうして二人して散歩しただろう。その度に幸せをかみしめ、喜びにひたっていたのに。突然の別れを切り出 され、心のうちは動揺しているのに、それを微塵も表にださない。今の榮子にはそれが精一杯の彼への抵抗であった。


海との境の手すりにもたれて、二人して海を見る。
彼がポケットから小さな封筒を取り出した。
「これが、マンションの鍵です。しばらく逢えないが、いつでも横浜に来て、泊まるといい。あなたのために用意しました。ぼくは行く事はできないが、あなたへのぼくの気持ちです。地図と鍵がはいっています」
彼は榮子の手を取り上げて、彼女に封筒を掴ませた。


「お別れするのに、こんなものはいらないわ」
呟くように榮子は言う。
「妻が死ぬまで待ってください……、そんな言葉はぼくには言えない、まして妻を介護しながら、あなたに逢う事も、ぼくの良心が許ない。横浜を好きなあなたへのプレゼントです」
今度、いつあなたに逢えるかわからないと言いおいて、彼は夕暮れの公園から去っていった。


後姿はこころなしか淋しそうだったが、榮子にはとても冷たく感じられた。置き去りにされたような気がして、榮子は彼の背から視線を海に移した。
またたくまに視界はうるんで空と海とが溶けてしまった。



 

五位鷺 (3)

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月21日(日)23時22分47秒
編集済
 



その世、広すぎるホテルのツインの部屋で、空のベッド、いるはずの主のいないベッドを眺めて、眠れない夜を過ごした。
想い出を残すまいとして、かたくなに榮子を拒んだ彼の心中を、少しずつ冷静に考えられるようになってきた。


三年間とは言え、たびたびの逢瀬を重ねてきて、お互いの生活のスタンス、心のあり方も理解できていたので、今回彼がとった行動が純粋な思い出あろうと推測できた。
それだけに、彼の身の上に降りかかった元妻の状態がきっと過酷なものなのだろうと思われた。


横浜は榮子の創作花には欠かせないイマジネーションを湧き立たせるところ、彼はそれをよく知っている。だからこそ、その空間を確保してくれたのだろうと、地図と鍵を封筒から出した時に思い至った。
翌朝、榮子はチェックアウトをしたらすぐに、京都へ帰るつもりだった。
フロントで鍵を渡すと、「お預かり者がございます」と言われた。


女性が奥から持ってきたのは、真紅のバラの花束だった。
そして手紙。彼からのものだった。
手紙には、そのまま帰らずに、必ずマンションへ寄るようにと書かれていた。
花束を持って、手配されていたタクシーに乗る。マンションはホテルから10分のところにある、瀟洒なマンションだった。いかにも女性が好むような、真っ白な壁と、飾り門のある瀟洒なマンションだった。


案内された部屋に通ると、ベネチュアのカットグラスの花瓶がテーブルの上に置かれていた。
「あなたが予定していた日数、ここで滞在して横浜を散策しておかえりなさい」
彼のメモが、心にじんとくる。
待たせておいた車を断って、榮子はあと2日をこの部屋で過ごす事に決めた。まったく彼の匂いのしない部屋。榮子のために、彼が手を尽くして決めたであろう事を思い、榮子はここに滞在する事をきめたのだった。


京都へ帰ってから数日、榮子は彼について反芻していた。
唐突な別れ、渡されたマンションの鍵、彼の別れた妻の事、仕事に追われている時は脳裏を掠めもしないが、ほっと一息ついた時に、どっと押し寄せてくる。
ぼんやりと事務所の窓から、くすんだ京都の空を眺めていると、過去の彼との逢瀬が思い出されて、体が熱くなってくる。しかし、いとも簡単に、理解力をしめして、別れ応じた自分と、横浜で一人過ごした、与えられたマンションでの時間が惨めに感じられてきた。


詳細に語らなかった彼の現状、思いやりを示したつもりが、その事が自分を苦しめていると、榮子は思う。気持ちのどこかに、別れる必要などないじゃないのという思いがあって、だんだん彼のとった行動が許せなくなっていた。かすんだ空のように、理解していたつもりの彼の事が、どんどん見えなくなっていくようだった。


こんなにもろいものだったのだろうかと、榮子は自分の心に問うてみる。彼のどこに惹かれていたのだろうかと……。
彼の心を捉えている、そんな自信がどこかにあった。そんな自信がもろくも崩れた。追いすがる事を拒んだ自分の誇りの前に、もう一人の榮子が笑っているような気がした。


美佐子から電話が入った。
袖子の退院&離婚祝賀会をするという事だった。
「離婚したの?」と榮子が受話器をで吃驚した声を出すと、美佐子がさばさばした感じで言った。
「うん、大分前から、冷めていたらしいよ、あそこの夫婦。それにしても演技達者な仮面夫婦だったわね。感心した」
受話器の向こうで、美佐子が笑う。


見舞いに行った時、彼女が言っていた言葉は、病気が言わせたんじゃなかったのだ。榮子はなんとも言えない気分だった。
「明るい感じで、お祝いに来てね。こんな時こそ、みんなで支えてあげなくっちゃね」
「うん、そうだね」
受話器を置くと、榮子は気分を取り直すように創作花の花びらの山に手を入れた。


結婚式のライスシャワーの代わりにバラの花びらを撒きたいが、生のお花は踏まれたら絨毯にシミを残すから布で作って欲しいと依頼があった。
数は数百枚になる。花びらにコテを当てながら、榮子は彼の事を考えた。彼が独身だからと、結婚を意識しなかったと言えば嘘になるが、ずっと彼の心を占めているのは自分だと自負していたのに、元妻へ帰って行った彼の心が少し恨めしかった。


妻とは何年も前に別れたと言っていたが、ずっと続いていのかしらと、そう思うと、彼の面影がゆがんでくる。
「男ってね、自分の事しか考えていないのよ」
病院のベッドで、窓からみえる小さな空へ視線を移したまま、ぽつんと呟いた袖子の言葉が、しみじみと蘇ってきた。
あの時は、袖子の言葉をさらりと聞いていたが、今になってみれば現実みを帯びて榮子の心に突き刺さる。


美佐子がいつものように予約しておいたレストランは、窓から離れて奥まった所に予約席が取ってあった。
袖子は薄黄色いシフォンのワンピースを着て、まるで別人のように華やかな感じで座っていた。
少し長めのパフスリーブが冷房の冷たい風から彼女を守っているようだった。


曉子はジレだけを薄い紫にして、上着もスラックスも黒を着ている。いつも花柄を好んでいる彼女なのに、どうしたものかと、榮子は一瞬いぶかった。
美佐子は例によって、ビジネススーツである。着替える時間がなかったと言い訳をする。
コース料理の最初に、ワインで乾杯をした。
「袖子の退院とシングルゲットに乾杯!」


おどけたような美佐子の言葉に笑いながら、ワイングラスを少し触れさせて、みんな一緒に微笑んだ。
「これで、ダブルは曉子だけだからね」
美佐子が、片目をつぶって曉子のようにワイングラスを傾けた。
「うん、私はまだ当分、繋がれたポチのままです」
曉子がウインクを返す。


「一人でも、二人でも、私たちの関係は永遠に不滅です」
美佐子がまた笑いながら言った。
「これから、楽しい事いっぱいしょうね」
袖子が言った。
黄色いシフォンのワンピースは、退院したばかりの袖子を、お人形さんのように見せていた。今日は自分が主役と思ったのだろうか、それとも、退院と離婚、少しでも明るく振舞おうと思ったのだろうか、袖子からオーラが出ているのだろうか、そこだけがとても明るく感じられた。


「榮子、横浜どうだった?」
不意に、曉子が聞いてきた。心に動揺が走る。しかし榮子は静かに答えた。
「うん、まあまあ楽しかったわ。気分転換にはね」
「お友達にも会えたの? 洋子さんから聞いたんだけど」
洋子が話したのか、不意に質問されてどぎまぎしたが、きっと曉子は何か用事があって、榮子の留守の間に、電話でもしてきたのだろう。


「それがね、相手の都合が悪くて最初の日しか逢えなかったの。だからあとは一人で、あちこち見て歩いたの。退屈だったわ」
曉子から再び質問されないように、榮子は先に思いを全部話した。
曉子はそれ以上聞いてこなかった。横浜の友人を女性だと思っているふうだった。
それから、しばらくは運ばれてきた料理に舌鼓を打った。久しぶりの外食らしく、袖子は「美味しい」を連発している。


誰も離婚の経緯を聞かない。それぞれの着ているものに話題を移して、とりとめなく笑った。
袖子が、ワインをぐっと飲み干してから、切り出した。
「あのね、離婚したけれど、当分同じ屋根の下に住んでいるの。籍は抜いて、実家の姓にもどったけれどね」
「あら……」と曉子が呟いた。
「食事は作るけれど、一緒に食べないの」袖子がボソッと言う。
「彼、何も言わないの?」美佐子が聞く。


「だって、病気の私が心配だからって言うんだもの。すぐに新しいところへ引っ越すのも大変だし、一軒家に住んでいても会わ ない事多いから、顔を合わせる事も少なくて……。裕太が就職して一人立ちするまでは、この状態で我慢しようかなって思っているの」
「あら、悠長な離婚ね、もっと切実かと思っていたのに」
曉子が言った。今まで離婚には触れなかった分、急にみんなが思い思いに話す。


「切実なんだけど、経済的な事考えたら、このままでも良いかなって思って、しばらくはね」
「じゃ、我儘離婚ね」美佐子が明るく言った。
その言葉に、少しはにかむふうな笑いを浮かべて、袖子は榮子に視線を投げかけた。
「じゃ、家庭内別居、家庭内離婚と一緒じゃないの」
榮子は笑いながら言った。お互いにその状態で我慢できるなら、きっと病による心の傷が癒えたら、元の鞘に治まるんじゃないのかなと、どこかほっとした気持ちを持って、榮子は袖子の顔を見た。


横浜で榮子に鍵を渡しながら、「しばらく逢えない」と彼が言った言葉を思い出した。そう言いながら、携帯の電話番号を変えたようで、榮子が電話をかけた時、「現在使われていません」と言う音声ガイダンスが流れた。空疎な気分を袖子と分かち合えるかも知れないと、榮子は思っていたのだが……。


しんとした雰囲気を改めるかのように、曉子が家で飼っている、ラブラドール・マリーの話を始めた。子犬を4匹産んで、2匹までは行き先が決まったが、あと2匹がどうしても決まらない。置いておくと情が移るので、だれか貰ってほしいと、どんなに可愛いか大げさな身振りで言いながら、懇願するようにみんなの顔を見回した。
その夜は、いつもみんなで行く小さなクラブにも寄らず、女たち四人はそれぞれの家路についた。


努めて明るく振舞っていたが、榮子の心は回廊をぐるぐる歩いているような思いだった。横浜で別れた祥一郎の事は、どんなに考えても納得が行かなかった。冷たさと優しさとが、交互に思い出されて、心の中に渦を巻く。
ベッドに入ってからも、彼の本心がどこにあるのか、彼の言葉や眼の光を思いだすのだった。彼の眼は決して榮子を嫌いになった眼ではない。榮子はそう思った。ならば、どうして……。彼の言った事が、もし方便ならば、彼は何を隠しているのだろう。


もっと、はっきりとした言葉で、彼にすがって詰問すれば良かったと、後悔の念がじわじわと湧いてくるのだった。
寝よう、寝てしまえば、悩まずにいられる。いつものように、楽しい風景を無理やり脳裏に描いた。やがて、榮子は眠りに落ちていった。




 

五位鷺 (4)

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月21日(日)21時26分9秒
編集済
 





「恋していない私がいるのは罪だと思う」
袖子は離婚を決意した一番の原因はこれだという。夫に恋していない妻、結婚していない榮子には意味は理解できても、実感は伴わない。恋をして結婚したのに、愛は冷めていくのだろうか。脳裏に逢瀬を重ねた彼との時間が甦る。
「先生、新しい企画の事で、大沢さんからお電話くださいとのことです」

留美子の電話にはっと我に返る。この数日、気分がすぐれない。出会いと別れ、かみ合わない思い、齟齬の言葉の数々、自分の中で、まだ精算できていない思いが、仕事をしている榮子の袖をひっぱるのだった。一方的に心を切られるのは、蛇の生殺しだと榮子は思う。
大沢が部屋に入ってきて、新しい企画の話をした。
以前みた大沢と違って、なんだかはつらつとしている。目も耀いていて、語彙が豊富になったような感じがする。

「心境の変化? 何か良いことあったの?」
尋ねると、大沢は少し目を泳がせてから、榮子を見た。
「まあね、ちょっと美味しいものを食べさせる店をみつけたんですよ」
「あら、そんな事でうれしがるようなあなたじゃなかったと思うけれど」
「今度、誘ったら行きますか?」
「今、ダイエット中だからね……」
と榮子は答える。

「じゃ、ここのお嬢さん方と一緒に行きますか」
大沢は(お嬢さん)に力を込めて言った。
「うんと、ご馳走してあげてね。この頃、私、会食をサボっているから」
そう言いながら、膳は急げ言いながら立って作業室のドアを開けて、言った。
「大沢さんがね、料亭でご馳走してくださるそうよ。予定を早めに決めたほうが良いわ」
「あのねぇ、料亭って大げさな、そんなに急に決めなくったって……」
大沢が言うのと、留美子達が喚声を上げるのと同時だった。

企画の話はそっちのけで、美味しいお店の話が盛り上がる。大沢と洋子と留美子が、手帳を広げて、スケジュールの調整をし始める。。それを背に、榮子は窓の外を眺めた。寂寥が一気に体を包む。これではいけない、もっとしっかりしなくてはと、心にぽっかり空いた寒い洞穴に、榮子は息を吹きかけるように自分を励ますのだった。

デパートへ行くという大沢に頼んで、京都駅へ送ってもらった。
気分が萎えている時は、駅へ来る事が多い。駅ビル2階にあるホテルグランビアの喫茶の窓側を占領。
カフェラテのカップを前に、京都駅のコンコースを見下ろしていると、心がちょっと安らぐのである。

嬉々としてこれから旅立とうとする人、ちょっと隣の駅まで行くような軽装な人、あるいは人待ち顔な様子で改札口辺りをうろうろしている人、駅には様々な人と様々な人生がひしめいている。
ぼんやりとコンコースを眺めていたら、デパートへ行ったはずの大沢が足早に喫茶に入ってきた。榮子のカフェラテを見て、同じものを注文する。

「あら、デパートは?」
「いや、お茶を一緒に飲める機会っていうのはないから、時間をずらしてもらった」
「まあ、お茶をご馳走してくれるのね」榮子は笑った。
「実は、君にお見合いの話があってね」
「え? あたしに? 今さら結婚なんて」
「相手は、家もお金もあるし、悠々自適に暮らせる人だよ」

「結婚ねぇ……」
「相手はさ、君の事良く知っていて、ぼくに様子を聞いてきたんだ」
「デパート関係の人?」
「うん、そうだよ」
「じゃ、悪いけれど、名前も何も聞かないから、言わないで。で、この話、きっぱり無かった事にして」

「どうしてさ、良い話だと思うよ。君にぴったりの人だし」
「私、好きな人いるのよ」
「でも、別れたんだろう。気分一新にお見合いしてみればいいじゃないの」
「あら、別れたって、良く知っているわねぇ。だれ、あなたにご注進した人は?」
きっとした目で大沢を睨む。
「プライバシーには口を挟んでもらいたくないの」

「悪かった。落ち込んでいる君を見ていられなくて、わかるんだよ、可愛い後輩だから」
大沢は軽く頭を下げた。カフェラテのミルクの香が甘く漂う。
「女はね失恋したら、二年は引きずるのです」
わざと大げさに言って、榮子はコンコースに目をやった。不意に切ない思いが込み上げてきて、目が潤んでしまいそうだった。

「私、仕事にプラバシーを絡ませたくないから、その点を説明してきっちりお断りしてね」
気を取り直して、大沢に念を押した。
「どうするつもりなの?」
「どうって?」
「寂しいでしょう、仕事に身がはいってないよ」

「あら、お見合いしたら、仕事に身がはいるとでも? すぐに思い切れるような相手じゃないんです、榮子の恋は」
ちょっと、むくれたような声で言い、榮子は後悔した。今まで、大沢には何も話していなかったのである。
「でも、別れたんだから、早く切り替えしないと」

大沢の言葉に、ちょっといらいらしてくる自分に榮子は気づく。
大沢も、そんな榮子の気分が見えたのか、カフェラテを急いで飲むと、約束の時間だからと伝票を持って、席を立った。榮子は軽く会釈して、声は発しなかった。気分安めに来たのに、心がざらついてくる感じだった。
ウエイトレスを呼んで、珈琲のお替りを注文するまたぼんやりと何も考えないで、コンコースを見下ろす。

一度だけ彼が京都に来た事がある。会社の慰安会だった。宿泊しているホテルが喫茶の上のグランビアだったので、榮子が逢いにきた。しかし、どこで会社の同僚に見られているかわからないという事で、背中合わせに座って、コンコースを眺めていた。鏡に映る彼の横顔さえ見られない。そんな背中合わせの逢引。それでも、幸福な気分だった。

恋は永遠に続く、続かせると彼は言ったのに……。また、彼に対する気分が高揚してきた。相手のある事はどうしようにもないのに、ある一点を中心に行きつ戻りつしている榮子だった。運ばれて来た珈琲を一口すすると、榮子は今までの気分を振り払うように、席を立った。

一旦ホテルの喫茶から出て、エスカレーターで駅のコンコースへ降り、駅の玄関を横切り、そして伊勢丹への上りのエスカレーターに乗った。駅の改札口を左に見ながら、榮子は大きな息を吐くと、しっかりと室町広場に目をやった。階段には三々五々若者が腰掛けている。イベントがあるのだろう。陽光がさんさんと降り注いでいた。

「榮子!」
不意に後ろから声がした。振り返ると、袖子がきらきらと目を輝かせて見上げていた。
「伊勢丹に行くのよ。あなたも?」
袖子の問いに、にこりと頷いた。
「今日はね、気分一新、洋服を買いにきたの、付き合って」
屈託なさそうな袖子の声に救われるようだった。

「あのね、シンガポールへ行くの。榮子も来ない?」
「急に言われても……、仕事の事もあるし」
「いいの、いいの、観光じゃなく、気分変えに行くんだから、時間なんて必要ないわ。思った時に出ればいいから。パスポートあるんでしょ。一緒に行こう。そのほうが私心強いもの。なにせ、病後だから」

袖子は無理にでも榮子を連れて行きそうな雰囲気だった。その強引さに苦笑しながら、病後の袖子のために、榮子は伊勢丹の大きなガラスのドアをあけてやった。
嬉々として旅の服を選んでいる袖子に少し付き合ってから、榮子は自分のためには香水を選んだ。以前から欲しいと思っていた「夜間飛行」。身につけるのではなく、そっとそばに置いておきたい香りなのだ。夜間飛行…この言葉に酔っている。

まだ付き合って欲しそうな顔の袖子を伊勢丹に残して、榮子は事務所へ戻る。顔を見るなり留美子が言った。
「携帯電話の電源切ったままですよ。連絡のしようがないじゃないですか」
ひたすら謝りながら、自分の席に着く。
「夜間飛行」と一緒に口紅を三本買ってきた。買い物をすると気が晴れる。
「好きな色を選んでね。お土産だから」
と言うと、留美子は怪訝な顔をしながらも、喜んで箱から引っ張り出した。

「どこへも行ってないのにお土産だなんて、うれしい」
「ふふ、それをつけて、素敵なデートをしていらっしゃい」
榮子はそう言いながら窓の外に目をやった。新しい口紅をつけて弾んだ心で彼の所へ行った事が思い出された。
それを打ち消すように首を振って、榮子は留美子に言った
「さあ、仕事、仕事! がんばるからね」

夕暮れ、作業室で散らばった布切れを整理している時、美佐子から電話がはいった。
「あのね、私もシンガポールへ行くからね。曉子にも声をかけてあるからそのつもりしておいて」
それだけを言うと忙しいからとさっさと電話を切った。朝の話がもうまとまりかけている。その速さに榮子は苦笑してしまった。  美佐子が間にはいると、二頭立ての馬車も四頭立てになる。強引な所はあるけれど、いつも上手くまとめていく彼女のリードに、今更ながら感心した。いっとき、日本を出てみるのも良いかもしれない。榮子は少し心が傾いていくのを感じた。

マンションに帰ると、榮子はクローゼットに直行し、シンガポールへ行く洋服の選び出しを始めた。行きはラフな格好を選ぶ、久しく履いていないジーンズを取り出し、ブイカ
ットのTシャツと、ゆったりとしたオーバーブラウスを出した。日除けも兼ねている。

三泊と美佐子は言った。それほどの物は持っていかずに、着回しができ、かさの低い物にする。下着をそろえていると、涙が滲んできた。いつも横浜へ行く時に持っていた、レースのハンカチが、引き出しを開いたら出てきたからである。少しピンクがかったハンカチは、さくらの花びらを寄せたような刺繍が全面に施してあって、榮子がお守り代わりにしているものだ。
それを膝にかけて、食事をするのが、横浜へ行った時の習慣だった。花の頃、それは一番きれいな春の時、その季節を逢瀬の間中、再現するのである。想い出のあるハンカチを引き出しの奥へ入れて、榮子は他のハンカチ数枚を選んだ。そしてクローゼットを出た。

袖子のあっけらかんとした顔を思い出した。離婚しながら同居している彼女の横顔は、明るかった。心の中で何を引き、何を足し算したのだろうか。病室でみた袖子の思いつめたような瞳を思い出した。そして伊勢丹で会った時の袖子の瞳、その色と耀きのちがい、なぜなのか、答を聞きたいと榮子は思う。
ベッドに入っても、なかなか寝付かれない。

思い出すのは彼との逢瀬ばかり。言葉の数々……、こんなに思い切れない自分があったとは、榮子はもどかしくなるばかりだった。逡巡は暗い部屋の中では涙を誘うばかり……。
思い切って起きる。パジャマを脱いで普段着に着替えた。キッチンへ行って珈琲をたてる。彼とお揃いの珈琲ミルとカップ。横浜で買い揃えたものだった。それを見ていると急にイライラとしてきた。珈琲をそのまま流しに捨てると、思い切って外へ出ることにした。

女の一人歩きは危ない…、彼の声がどこからかしてきた。こんなになっても彼の言葉が聞こえてくるなんて……。榮子は首を振りながら、走ってきたタクシーを止めた。
時間は午後十一時。四条河原町までやってくださいと声をかけて榮子は目を瞑った。この時間の河原町はもう真っ暗だと思いながらシートにもたれた。

十五分ほどで河原町三条についた。あと少しで四条だが、そこで降りる。二千円渡して、お釣りはいらないと言う。さっさと降りると、東から西へ横断歩道を渡り、南下した。
喫茶「青山」に入る。

オールナイトのこの喫茶は、賑わっている。ひとり奥の椅子に身を沈めて、一番高い珈琲を注文する。ハンドバッグに忍ばせていた文庫本を取り出して、ページをめくる。目は文字を追っているが、内容は頭に入らない。気分が立っている。こんな時はどうすればいいのか。仕事でイライラが募ったときは彼に電話をすれば、一瞬のうちに氷解したのに、今はその彼がストレッサーになっているのだ。

運ばれてきた珈琲が良い香りを立てている。美佐子なら言うだろうな。
「だからさ、仕事をする女は「女」になっちゃうと駄目なのよ」
その意味が今わかる。仕事で埋める事のできない隙間、そんな隙間は自分にはないと信じてきたのだが……。
ぼんやりと、珈琲から立つ白い湯気を見つめていたら、L字の席にすっと立った人物がいる。

「よろしいですか?」低い声で相手が言った。
顔を上げると、目の涼しそうな青年が榮子を見下ろしている。
「どうぞ」頷いて、榮子は本に目を戻した。
青年が腰を下ろし、バッグから本を取り出すのを、榮子は目の端に捉えていた。
話しかけられるのは嫌だった。だから、彼が読書の姿勢を見せた時はほっとしたのだった。

今、思考は止まっている。自分の心もあの日で止まったままなのだと、榮子は思う。猥雑な人混みの中に入ればそれが動き出すかもしれないと思ったが、それを待っているわけではない。映像を結ばない読書の世界にはいりながら、逡巡の言葉を繰り返している榮子だった。

ウエイトレスが来て、空になった榮子の珈琲カップに新しい珈琲を入れてくれた。カップを手に取る。芳香が流れる。白い湯気とともに、鼻腔をくすぐる。目を閉じて香を楽しんだ。
逢いたいと思う気持ちが、体中の血液を収斂させる。鼓動がよみがえり、言葉が体中を駆け巡る。指先が震えてきて、おもわずカップをソーサーの上に置いた。榮子は心の中で涙を流した。
終夜営業の喫茶店は人の切れる時がない。
河原町という京都のメインどおりにあるのと、高級なイメージで売っている喫茶は、客から選ばれるというよりは、客層を選ぶ形となる。
夜には、一杯の珈琲が千円近くになるから、おのずと若い子達の足は遠のく。だから落ち着いた雰囲気になる。そしておしゃれな花柄模様のソファはゆったりと休ませてくれる。
考え事をしながら、文字だけを目で追っている榮子だった。

「あら、榮子じゃないの?」
大きな声に、見上げると、美佐子がそこに立っていた。
「どうしたの?」榮子が反対に質問する。。
美佐子が笑いだすのと、隣の青年が榮子の顔を見るのと同時だった。
「悪い事はできないわねぇ。私デートだったのよ。ねえ、星野くん」
美佐子が隣の青年に微笑みかけ同意を求めた。そして、するりと青年の横に腰掛けた。

「紹介するね、こちら星野くん。わが社切ってのホープ君なの」
「星野です。よろしく」と、青年は会釈した。
「親友の榮子、アートフラワーの先生しているのよ」
榮子は頭を下げながら、彼がテーブルに置いた本の題名を見た。

「でも、すごい偶然ね。こんな所で会うなんて。それよりも、どうして榮子こんな時間にこんな所に、いるのよ。」
美佐子が詰問するように聞いてきた。いつもなら詮索する言葉を機関銃のように発してくるのだが、今日は流石にそれはしない。
「私はね、星野くんと、新しい企画の打ち合わせをしようと思ってね。ここで待ち合わせなの。そうそう、シンガポールお流れになるかもしれない。企画がちょっと込んできてるから、お休みとれなくなりそうなのよ。のよ。ごめんね、電話したばかりなのに。ま、三人で行ってくれるとうれしいんだけど」

「あら、しきりやの美佐子がいないと旅行なんて面白くないから、延ばせばいいわ」
と榮子は答える。
「うん、じゃそうするわ」
と美佐子は、あっさり答えて、星野を見た。
「じゃ行こうか」と軽く促す。
「良いんですか? お友達……」
と星野が行った。
「いいのよ、榮子も誰かと待ち合わせかもしれないから」
美佐子は榮子にウィンクをして笑った。
「ええ、私も待ち合わせなの。どうぞ、お気になさらないで」
榮子は星野に向かっていった。

「それじゃ」と美佐子は、テーブルの上の丸いグラスから、榮子と星野の伝票を、抜き取ってひらひらとさせながら手を振った。
星野は視線を一瞬榮子に止めてから、席を立った。そしてドアを出てからもう一度、ガラス越しに榮子に会釈をした。美佐子はドライな感じで手を振った。何事か話しながら、ふたりは四条通りにむかって歩き出した。

ほんの少し前までは赤の他人で見知らぬ通行人のような存在だったのに、一瞬の間に星野は栄枯の友人の枠に入り込んでしまった。物静かで、隣に座っている榮子に関心を示さなかった星野の態度が、とても好ましく思われた。
そんな星野をいとも簡単に連れまわしている美佐子に、少し嫉妬を覚えてしまう榮子だった。


 

  

 投稿者:   投稿日:2008年 9月21日(日)21時12分20秒
編集済
   

  

 投稿者:    投稿日:2008年 9月21日(日)20時58分40秒
編集済
   

  

 投稿者:    投稿日:2008年 9月20日(土)21時18分20秒
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とっても愛しているんです。

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月20日(土)20時11分47秒
編集済
 


喫茶風月堂の店内は、暖房がはいっていた。ほどよい暖かさである。
十五坪ほどの店内は、お客がまばらで、ウェイトレスの話がやたらひびく。ここのウェイトレスはお客に気を遣わない。その分、客も気を遣わず、長居する事が多い。どことなくざわついている喫茶店である。


左右の壁に沿って、作りつけのソファが一直線に続いている。その前に四人用のテーブルが、中央を通路にして、等間隔で五つずつ並べてある。ぼくはこの作りつけのソファの一番奥に座る。そこが毎朝のぼくの指定席である。
ちょっとした雑誌社へ勤めているぼくは、時差出勤で朝が遅い。出勤前の朝九時、いつもここへ来てコーヒーを飲み、新聞に目を通す。それが習慣になっている。


今日はいつものメンバー四、五人のほかに、見慣れないカップルが二組、奥のテーブルと入り口のテーブルに陣取っている。奥のカップルは、歳の頃五十歳後半の上品な夫婦とおぼしき雰囲気。もう一組は歳の離れた男と女の組み合わせで、女性のほうが十歳ほど年上に見える。


指定席を取られたぼくは、仕方がないので、中央のテーブルを前にしてソファに座る。座るとすぐに、ウェイトレスが注文を聞きに来た。今日はわけあって、朝飯にありついていない。モーニングセットを注文して新聞を広げた。


右横のカップルのひそひそ話が耳に入ってきた。
「明後日、夫が広島から帰ってくるの。だからもう、今日と明日しか時間がないの」
「だけど、ぼくが都合がつかないよ」
「あの人が帰ってきたら、わたしもう外には出てこれないのよ。わかってるでしょ」
「電話で連絡するから、心配しないで待っててよ。きっと上手く連絡するから。そんなに慌てていたら、うまく行かないよ」
女はちょっとふくれたようである。カチャカチャとせわしなく、スプーンで紅茶をかき回している。


「お願い、何とかして。このままでは私、気が狂いそうなの」
女が絞り出すような低い声で訴えた。その間もスプーンで、カップの底を引っ掻いている。そして、そのまま黙り込んでしまった。
「そんなにせかさないでほしいよ」
「出来るだけの事してやるって言ったのは、あんたなのよ」
「わかっている。責任を感じているから、こうして出向いてきているんだ」
男がいらだつように言った。


ぼくは思わず新聞に顔を向けたまま、視線だけを二人に移した。
「早くあの子に会わせて・・・」
「だけど、黙って連れてくれば誘拐になるから、いくらぼくが叔父でもそれはできない」
「・・・・・・・・・・・」
二人の会話から、不倫の関係ではなく、義理の姉弟らしいと知れた。ひとごとながらほっとする。


「兄貴が結婚したら、あの子は要らないようになるって、あんた心配しているみたいだけど、兄貴はそんなことしないよ」
「相手に子どもが出来てごらん。そんなきれい事言ってられないから。後妻の子どものほうが可愛くなるに決まっているわ」
「だけど、義姉さんだって再婚しているんや。どうしようもないだろう。今、あの子に会えば余計ややこしくなるよ」
「じゃどうすればいいのよ。会わせてやるって、約束したこと忘れたの?」
今度は男のほうが黙ってしまった。


左横の席に座っている夫婦らしい二人の声も耳にはいってきた。
「明日、どうしても私、出て行きます。もう我慢がなりません。こんな歳になってもまだ、お母様にあれこれ指示されているなんて、あんまりです」
「もう少しだよ。もう少し辛抱してくれ・・・・・・」
「辛抱、辛抱って、いつまでわたくし、こんな状態でいればいいんですの?」


「・・・・・・・・・・・」
「辛抱しろって、お母様がどうにかなるのを待ってろって意味ですか? お母様は充分長生きなさいますよ。あんなにお元気だもの。それにしっかりなさっているし、どなたがご覧になっても、八十歳だってこと、お信じになりませんわ」
「私からも、なんとか母に口添えするから、出て行くのは考えなおしてくれないか」


「いつもそうおっしゃるのね。でももうわたくしには、我慢する必要がなくなりましたの。子どもたちもみんな独立して、私のお仕事も終わりましたわ。あの子達、自分の事は自分でしますもの。お母様もあなたも、ご自分の事はご自分でなさればいいわ」
「家事は主婦がするものだよ」
そう言って白髪の混じった温厚そうな紳士はため息をついた。その中に言ってはならぬことを言ってしまった後悔がちらっと見えた。


朝、出がけに女房が、ぼくの背中に投げかけた一言がよみがえった。
「わたし、疲れちゃった。今日は一日中寝ます。夕食は済ましてきてね」
「どこが疲れているんだ? 栄養ではち切れそうな身体していて・・・・・・」
と悪態をつきそうになったが、ぐっと飲み込んで出てきた。更年期障害が始まったのか、この頃よく家事をさぼる。それとも空巣症候群というやつか。


一人息子が東京の大学へ行ってしまったために、女房は愛情の持って行き場所をなくしてうろうろしている。それならいっそのこと、ぼくにその愛情を注いでくれれば、一挙に問題が解決するのに、亭主には愛情を注ぐ気にはなれないらしい。


右側の席ですすり泣きが聞こえた。
「会いたいの、会いたいのよ。ねえ、なんとかして私をあの子に合わせて・・・・・・」
涙まじりの鼻水をすすりながら、女が哀願している。男は黙って珈琲を啜っている。
「この十年、あのこの事が心の中から離れないの。家の跡継ぎにするっていうから、泣く泣く置いてきたのよ。あんなきついお母さんのもとでは、私、子どもを産む道具にしかすぎなかったのよ。子どもが生まれたとたん、出て行け出て行けの毎日で、子どもも抱かせてもらえなかったわ」


「兄気がもう少ししっかりしていたら、こんなことにはならなかったんだけどね」
「ねぇ、私、離婚を覚悟であの子に会いたい。親子でもう一度やり直すわ。ねぇ、それがあの子を幸福にする唯一つの道よ。そうよ、それが一番いい道よ」
女が闇に灯を見つけたように明るい声で言った。
「離婚? 馬鹿な!」
男の声がきっとなった。


「何度離婚すれば気が済むんだ。今さらあの子を引き取って育てても、ほんとうの親子になれるものか。あの子はおふくろが、舐めるようにして可愛がったんだ。ほしい物は何でも与えられ、したいことは何でもさせてもらえる。今更愛情だけの母子生活に、辛抱できる子じゃない。義姉さんにあの子を満足させるだけの経済力があれば別だけどな。《なんでぼくを捨てて出て行った》って悪態突かれるだけだよ」


「でも、私が生みの親だって事、知りたいと思ってるはずでしょ。なんと言っても産みの親は強いはずよ」
男が冷たく言い放った。
「おふくろが、母親は死んだと言い聞かせて、義姉さんの位牌まで作っている。だから、そんな事は考えた事もないと思うよ」
女の悲鳴が、小さく長く尾を引くように聞こえた。そして嗚咽に変わっていった。声がもれないようにハンカチで口をしっかりと押さえている。


「ともかく、必ずあの子に会わせるから、もう少し機が熟すまでまっていてくれよ、ね」
男がやわらかな声で、諭すように言った。女はまだ嗚咽している。
「わたし、あの子のために、再婚しても子どもを作らなかったの。あの子に済まなくて子どもを産まなかったの。それなのに・・・・・・」


女は立ち上がるとコートを羽織った。
「よろしくお願いします。連絡を待っていますから」
あとは言葉にならなかった。ぽたぽたと涙がテーブルの上に落ちた。女は深々とお辞儀をすると、逃げるように表へ出て行った。
残った男はきまずそうに周囲を見回したが、誰一人として二人に注目している人はないように見えた。ほっとしたような表情で、男は煙草に火をつけた。


左の席の会話も続いていた。
「ぼくは、君がいなければ何もできない。ぼくがこうして学問に没頭できるもの、大學の人間関係を気にせずにやっていけるのも、君が母とうまくやってくれていたからだ。家庭の事は君にまかせておけば安心だったからだよ」
「いまさら、そんなお上手な事おっしゃっても駄目ですわ。わたくし、ずっとあなたとお母様の犠牲になってきたんですわ。わたくしという人間はこの世に存在していないんですの。あなたとお母様の、ていの良い召使だったんですから」


「いや、そんなことはない。ぼくも母も君の存在を有り難く思っているよ。料理もうまいし、家事能力はどこの細君にも負けないよ」
「今どき、洗濯、掃除なんてだれにでも出来ますわ。パートの主婦でもお雇いになればよろしいのよ」
やさしく上品な感じの婦人のどこにこのような思いが隠され、蓄積されていたのだろう。ぼくは新聞に目を落としながらも、視野の中の婦人に注目した。


婦人の手にはグレーのハンカチがあった。中国の刺繍入りのハンカチだ。女房がデパートのショーケースから離れないので、背後からそっと覗いた時、陳列してあったやつだ。紛れもなくその時のハンカチと同じだ。一枚数千円はしたはずである。夫人はそのハンカチを右手に持ったり、左手に持ち替えたりして、惜しげもなく使っている。ぎゅうぎゅうと雑巾のようにまるめたりしている。それはまさに、感情の起伏をしめしていた。


「ねえ、もう少しだよ。もう少し辛抱してほしい。ぼくのために。それにね、しっかりっ聞いておくれ。ぼくはもうすぐ、大學の学部を任してもらえるんだよ。総長から内示を受けているんだ。そうなれば、君は学部長夫人だ。君がいてくれなくては、格好がつかんよ。な、わかるだろ、頼むよ」

俯いていた婦人の顔が、夫の顔を見上げた。目がキラリと輝いたに違いない。紳士が矢継ぎばやに言葉を継いだ。婦人の心が少しずつ動いていくのがわかる。婦人はハンカチを膝の上に広げ、静かに皺を伸ばし始めた。見事なスワトウの刺繍が現れた。そしてそれは優雅に膝の上で花開いた。婦人は几帳面な感じで、角と角を合わせて二つに折り、四つに折った。しばらく間をおいた後、これ以上どこにもないと思えるほど、まろやかな甘い声で媚びるように言った。

「お祝いの会のために、色留袖を襟善に誂えさせてもよろしいわね。あなたの晴れの日のために。学部長夫人として恥かしくないものを誂えさせますわ。ね、よろしいでしょう」
うなずきながら、紳士が同意を求めるように言った。
「もう一杯、珈琲たのもうかね」
にこやかに静かに婦人がうなずいた。


ぼくはモーニングセットを喉に詰め込んだ。急いで風月堂を出た。足は家の方向に向いている。女房が心配になる。何を考えていることやら。ぼくは胸がどきどきした。女房は寝ているだろうか。更年期障害だか、空巣症候群だか知らないが、じっと家にいるだろうか。思わず足が速くなる。なあに、あいつはちゃんと普段から、自分を主張しているし、ストライキもしてぼくをほったらかす時もあるんだから大丈夫だろう。自分で自分にいいかせているだらしなさに腹が立つ。ぼくはここ一ヵ月ばかりの女房の言動を振り返ってみる。


「新しいスーツ買ってもいいかしら? 今バーゲンで買えば安いの」
(なんでも買えばいいよ)
「大介に会いに東京へ行っていい? だって変な女の子にひっかかってちゃ、元も子もないでしょ」
(息子のとこだろうと、どこだろうと好きなところへ行けばいいよ)
「ねえ、家事分担制にしない? あなたも自立しないと老後大変だってよ。だってどちらが先に逝くかわからないもの」


(するよ、するよ。濡れ落ち葉にはならないように、分担制にして今から練習するよ)
「ねぇ、カラオケ教室へ行っていい? お隣の奥さんに誘われているの。それに俳句の会も・・・・・・、パートもしていい?」
(ああ、カルチャースクールでもカラオケでも、なんでもやってよ。そこでストレス発散してきてよ)


角を曲がればぼくの大事な家だ。女房のヤツ、大人しく寝ているかな。朝出たばかりの玄関が見えた。ガチャガチャと乱暴に鍵を突っ込んだ。がらっと開けると、なんと、妻が盛装してそこに立っている。バーゲンで買ったばかりの花模様のスーツを着ている。似合わんとぼくが散々けなしたやつだ。デージーも女房が着ると、ひまわりのように見える。


きっちり化粧もしている。手には大きな紙袋、なにかどっさり詰まっているようだ。ぼくは必死に引きとめる言葉を探した。悲しいかなぼくには、女房が気に入りそうなポストがない。洋服をといっても、たかだかデパートの催し会場のバーゲンセールが関の山だ。何しろあの中国のハンカチをあきらめさせたくらいだから。そのために散々イヤミを言われたのを苦々しく思い出した。言葉をさがしておろおろしていると、先に女房が大きな声で言った。


「あら、どうしたの?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「あんたはんこそ、どうしたんや。しんどいんやなかったんかいな」
ちょっと詰問調で言って、しまったと思う。
「そう、わたし死にそうだったのよ。でもあなたのお母さんから電話がかかってきたの。しんどいから来てほしいっていうの。仕方がないからこれから出かけるところだったのよ。向こうへ着いてからあなたに連絡するつもりだったんだけど。大したことなさそうよ。寂しさからくるしんどさみたい。いつもの、サビシイサビシイ病よ」


おふくろの所へ行くのに、そんなに着飾るのか? 信用していないぼくが情けない。
「お母さんのところ、大介が東京行ってからこっち、あんまり行ってないでしょ。だから、さびしいのよ、きっと。わたし、お相手してこようと思っているの。でも、あなたどうしたの?
本当は会社、エスケープしてきたんじゃないでしょうね。まさか、登社拒否じゃないわよね。大介の学資と下宿代たくさんいるんだから、がんばってよ」


ずけずけ言うのはいつもの通りである。
「あんたがあんまりしんどそうやったから、心配になって途中で引き返してきたんだよ」
ぼくはそれを言うのが精一杯だった。
「そりゃどうも、ありがとさん」
女房は軽くぼくをいなした。
「本当は家出でもしたんじゃないかと、思ったんでしょう、私が。今、主婦の氾濫多いからね。NHKの朝のドラマみたいに……。」


真っ赤に塗った唇を突き出して、ニッと笑った。ぼくはどっと疲れが出てきた。
「あんまり、普段と違う事をすると、心にやましいことあるんじゃないかと疑われるわよ。あ・な・た」
女房は「あなた」に力を込めて言い放った。


これ以上話していると、ぼくはしどろもどろになり、気が狂いそうになる。靴をぬいで女房の横をすり抜けて居間に入った。香水の甘い匂いがした。会社に電話をして欠勤を願い出た。次長が電話の向こうで、青筋を立てているのが目に見える。
「この忙しい時に何を考えとるんじゃ」
電話を切った後で、みなに当り散らしているにちがいない。同志よ、許せ。


「はい、家庭が第一で―――す。家族が一番大事で―――す」
去年の忘年会の時、定時きっかりに帰るのを茶化され、その返事に臆面もなく言ったニューファミリーの総務課職員、青島の言葉を思い出した。
ぼくもその言葉を口の中で、呪文のように唱えてみた。ちょっぴりすっきりした。


「あなたぁ―――」
女房が玄関から呼んだ。女房にはつつましさと言うものがない。車のエンジンを思いっきり吹かしているのが聞こえる。
玄関に出ると、運転席を空けて助手席にでんと女房は座っていた。後ろの座席には、詰めすぎたために袋が破れたらしく、果物や海苔の缶が顔を出している。
そして、お袋の好物の夏みかんが五、六個、無造作に座席の上に転がしてあった。



 

弔問屋

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月20日(土)17時12分2秒
編集済
 



 「おかあさま、どうしておとうさまのおしゃしんがあそこにあるの?」
 あどけない子供の声に,私は声のする方向へ視線を移した。焼香台の前で、白いレース衿のついた黒ワンピース姿の幼女が、母親を見上げている。年齢は五歳くらいであろうか。大きな瞳をまばたきもさせず、じっとみあげている。

 白珊瑚の数珠を手に焼香を始めたばかりの母親は、びっくりした様子で幼女を見た。それと同時に、親族が居並ぶ内陣にどよめきが沸き起こり、視線が一斉にその母親に注がれた。
 列に組み込まれた弔問客の方は、何事もなかったようにしずしずと焼香台に進んだ。それでも弔問客の好奇のまなざしは、二人の姿とどよめきが起こった内陣に、しっかりと注がれていた。


 母親は焼香もそこそこに、子供の手を取ると、急ぎ足でその場を離れようと列の外へ急いだ。
「ねえ、おかあさまあ、どうしてなの?」
 繰り返す子供の声をさえぎるように、母親の手が子供の口もとをそっと押さえた。彼女の頬をつたう涙が光っていた。
 間もなく家人とおぼしき男性が、急ぎ足で駆け付けてきた。そして母親の方を抱きかかえるようにして、子供とともに別室へ消えた。


 急逝した大沢一朗の葬儀は自宅で執り行われていた。享年五十八歳、まだまだ働きざかりの年齢であった。菊の花だけを整然と丘のように配列した祭壇に、故人の遺影が微笑んでいた。私とは銀行の支店は違うが同期の入社であり、ともに支店長として良きライバルであった。


 大沢一朗に、あのような隠し子があったとは……。私は驚いた。大沢は、生真面目な男で、子煩悩でも知られていた。家庭を大事にしていたあの大沢が、いつの間にもうひとつの家庭を持ったのだろうか。いくら考えても解せなかった。喪服に包まれた婦人の楚々とした美しさ。愛らしい子供。葬儀の場所でさえなかったら、好奇のまなざしに追われることはなかったであろうと、私は不憫におもった。


 別室へつれて行かれた婦人は、親族から故人との関わりを聞かれたが、ただ泣きじゃくるばかりで何も答えず、子供も黙ったきりであったと、私はあとで聞かされた。困り果てた家人は、金一封を包んで婦人に渡し、人目に付かぬよう、丁重に駅まで送って行ったとのことだった。


 六月、私は取引先の社長の教会葬に参列した。蒸し暑い梅雨の合間の日だった。新築されたばかりの白く新しい教会は、市内の閑静な住宅地にあった。人々は一様に黒の服装であったが、祭壇は様々な種類の献花で華やかに埋めつくされていた。遺影は威風堂々として、創設者の威厳を保っていた。


 その時である。澄んだ声が教会内に響いた.
 声のした方向には、黒い帽子にネットを顔面に垂らし、黒のワンピースを着た、大沢の葬儀で目にしたあの婦人が立っていた.パールネックレスの大きな粒が、白いうなじをとりまいている。婦人の嗚咽が、華奢な体と抱えられた百合の花束を小刻みに震えさせていた。


婦人は黒いレースのハンカチを頬に押し当て、溢れ出る涙をぬぐっている。魅惑的な細い足が、品のよい黒のパンプスまですらりとのびていた。そばにはやはり、白いレース衿の黒ワンピース姿のあどけない女の子が立っていた.


 再び、歌うような、あどけない声が教会中に響いた.
「ねえ、おかあさまー、パパのおしゃしんよ、どうしてあそこにあるの?」
 秘書とおぼしき男性が、小走りに二人の方向に駆けよってくるのが目に入った。




 

  

 投稿者:    投稿日:2008年 9月20日(土)13時32分58秒
編集済
   

社長と檸檬 (1)

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月20日(土)13時11分48秒
編集済
 



 檸檬15個、オレンジ2個、赤りんご3個、バナナ一房、大蒜一袋、そして米酢一瓶。
まあ、なんという取り合わせ、そう思いながら、私はレジのキーを打つ。
 かごいっぱいの量のため、スーパーの大の袋2枚を押し込んで、レジの前に立つお客に差し出した。合計金額1876円。


 お客は新札の一万円札を出して、
「すみません」と一言小さく呟いた。
「いいえ」と笑みを浮かべてそれを受け取り、レジの中から釣銭8124円を取り出しレシートとともに彼の掌にのせた。
 レジの3メートルばかり右手で品物を棚に並べている役付きの社員がちらちらと、こちらを見る感じがする。ん?私のやりとりがおかしいのかなと、そちらを見ると、とうの社員は俯く。


 別台でかごからスーパーの袋に果物を詰め込んだお客が、レジに近づいてきて、余った袋を「ありがとう」といって返却した。自動ドアから外にでる間際、「有難うございました」の私の声にお客は笑顔で振り返って頷いた。
 お客が外に消えてすぐに、社員が小走りに近寄ってきて言った。
「今の方が、社長です。おぼえておいてください」


「あれま、そんな事は先に言ってもらわないと……」
私は苦笑い。
「顔わかりましたか」
と社員が聞いてきたが、いちいちお客の顔など見ていない。
 今の私は、レジのお金の出し入れに間違いがあってはならないと、戦々恐々としている。
「夜中に社長がわざわざ果物と酢を買いに、山手から街中まで出てくるなんて考えられない……」
私は笑った。


「いつも、そうなんですよ」
社員は緊張した顔で言った。
 でも、意外だった。社長はセーターとジーンズというラフな格好。そして、勤めてから3ヶ月もたつのに、私は社長の顔を知らないのだった。


 そうだ、そう言えば、今朝の出勤時、更衣室と勘違いして、入り口の部屋のドアをがちゃがちゃやっていたら、通りがかった事務員の女性に、そこは社長室だと言われたっけ。
社長が中にいたら、今日のセーターのお客が出てきたのかと、思わず笑ってしまった。


 私の勤めているスーパーは「スタープラザ」と言う名前で、京都市内5ヶ所に店舗がある。ポイント発行会員カード3万枚とあるから、しっかりした顧客を掴んでいるようだ。
レジにもオレンジ色に日の出のマークをあしらった会員カードを持って買い物に来るお客が多い。


 付近には京都大学、京都大学付属病院と、吉田神社、聖護院など、人を擁する建物が多い。お客の中には、付近在住の主婦にまじって、大学病院で入院患者に付き添っているる近親者や、ナース、大学の教授と見受けられる男性、そして学生達などがいる。深夜には、ベンツなどを止めて、買い物に入ってくる祇園のクラブのママさんも数人いる。


 スーパーの前には、樹齢400年とも言われている公孫樹の大木がある。師走も押し迫っているのに、今年はまだ黄金色の葉が樹全体をおおっている。朝の光を浴びている時などは、うっとりとしてしまうほど、蒼い空に堂々と聳えて輝いている。
 午後のおやつ時に風が吹くと、はらはらと黄葉が舞い落ちて来て風情がある。その下には、スタープラザが用意したお洒落なベンチがひとつ置いてあって、買い物に来た老人が座っていたりする。時にはスタープラザで買ったお弁当を広げながら、文庫本を読んでいる人もいる。


「スタープラザもおつな事するじゃん!」
と、関東から京大に来ている学生が、このベンチの事を褒めていた。京大の農学部の中にも銀杏並木があって、そこは鈴なりのぎんなんが空を肌色に染めている。道路にはおびただしい数のぎんなんが落ちていて踏まれて悪臭を放ち、それを靴で踏むとどこまでも臭いがついてくる。


 でも、「あたし的」には臭くってもぎんなんがなるほうがいい。
 表の公孫樹の下を眺めてぼんやりとレジの所定の位置にたっていると、「ほいほい」と言って初老の男性が新聞の束をドサッと前においた。
「また、これから切抜きを始めるんですよ」と笑いながら、小銭入れの中を探っている。
「あなたはお幾つですかな?」


 初老の男性は私の前に立つと、小銭入れの中を探るのをやめて、私の目を覗き込む。
「レディに年齢を聞くのは、紳士として如何なものでしょうか」
私は笑いながら答える。
「あなたなら、時そばの原理が大分応用できそうで」
男性は笑いながら、18紙分の合計金額を100円玉でレジ横の受け皿に、一枚二枚と声を出して、数えながら置いていく。


「切り抜きが終わらないと、本が読めなくってね」
 片目をつぶってよれよれのポケットから文庫本の頭を親指と人差し指でちょこっとつまみ出して、題名が私に見えるようにする。私はそれを一瞥して題名を覚え、読んでいない本なら帰りに古書店に寄って、それを買い求めて読む。


 そして、私は思う。はは~~ん、今こんな心境なんだなと。彼の読む本はおおむね昭和初期の物が多いので、百万遍の古書店では大概100円から求める事ができるのである。
 新聞18紙をぶら下げて男性は帰り際に「シルブプレ」と、片目をつぶって私に挨拶をした。今日のコートもよれよれだったけれど、あれはまさしくバーバリーだった。何を切り抜いているのか知らないけれど、こうして毎日新聞を買っていく「社長」さんなのだ。
「大和田さん、休憩を取ってください」


フロアの主任が私に近づいて声をかける。「え、もうそんな時間?」
 6台並んでいる壁際の1番レジの上の時計を見る。古い昔の振り子時計は4時を示している。 パートやアルバイトは、4時間ごとに30分の休憩をとらなければならない。その休憩時間はタイムレコーダーを「外出」にしてカードを通さなければならない。という事は、スーパーに身柄を拘束されながら賃金をもらえないという状況である。私にとっては、はなはだ遺憾な事なのだが、法規で定められているのだから我慢するしかない。


 2階の事務所に行って、タイムレコーダーの溝に「大和田翔子」と書かれた自分のカードを通して、外にでた。スタープラザの上は3階から10階までが、マンションになっている。 スーパーに勤めるようになってから、私はここに引っ越した。1DKで、一人住まいにはちょうど良い広さである。


 それまでは、上賀茂の一戸建てに住んでいた。引っ越してきたのは私だけで、敷地160坪の和風住宅に今も息子夫婦が住んでいる。私が長年住みなれた我が家、夫と共に人生の大半を過ごした思い出の家を出た理由はおいおい話していくとして、この1DKの住まいはすこぶる居心地がいい。


 必要最小限のものをもって出たので、部屋は今の所広々としている。ベッドと机とパソコン一式、そして冷蔵に食器棚。タンスはない。作り付けのクローゼットに春夏秋冬数着ずつの衣類とこまごました肌着類。それだけである。想い出になるものは一切持ってこなかった。

 大和田翔子第二の人生のスタート、そんな気分で出てきた。
 息子と嫁は猛反対したけれど、それも口先だけと結構心の中で僻みながら、それでも少し清清した気分で、私はこのスタープラザのマンションに移ってきたのである。休憩時間がくると、私は808号の自室に戻って、牛乳を飲み、パソコンのスイッチをオンにしてメールが来ていないか覗くのだ。


 アウトルックのフリーメアドに一通、ネットの友達からメールが入っていた。2週間後に京都へ行く用事が出来たから、お茶でもしないかとの誘いだった。2週間後といえば、まだ松の内、スーパーを休めるかどうか今のところわからない。シフトはこれから組まれるから、日がはっきりすればその日を外してもらえるもしれないが。その旨のメールをささっと書いて返信すると、急いで、私はスーパーの2番レジの位置に戻った。


しばらくすると、6番レジ担当の孫さんが篭をレジ台の上に立てかけて、私に近づいてきた。篭を立てると、そこのレジは休止中になる。
「相談したい事があるので、あとで時間とってください」
 彼女はそう言うと、きびすを返して自分のレジに戻った。孫さんは中国からの留学生で、このスーパー近くの留学生専用のアパートに住んでいる。私よりは首一つ半背が高い。年齢は私の半分近くあるのに。


 170センチはあろうかと思われる背丈に、童顔の小顔がちょこんとのっている。何の相談だろうと思いながら、私は孫さんの後ろ姿、無造作に束ねた髪をぼんやりと眺めた。
 スーパーの昼夜の交替は午前10時、午後10時で切り替えられる。私は友人のコネクションで採用されているので、シフトは昼夜どちらにも配属される事になっている。私の時間は100%私のものであるから、24時間のどこに組み込まれても、生活に支障はないのである。


 夕方のスーパーは混む。ぼんやりしていると、お客への挨拶の言葉も忘れがちになり、つり銭の勘定も間違えるので、私は「よ~し」と心の中で気合を入れ、レジに向かった。
8時にパートの仕事を終えて、孫さんと鴨川沿いの喫茶店に行った。葵橋のショコラというフランス料理のしゃれたお店である。


奥には30人ほどが座れるようにセットした長いテーブルがある。その中央を約30センチ幅の帯状に、深紅のバラの花びらがしきつめてあった。2本の燭台はルイ王朝時代を思わせるような樹の枝をあしらった金色のものである。
 聞けばクリスマスだからとの事。素敵な演出に孫さんと顔を見合わせてため息をついた。私達はパスタを食べることにした。


 それから一時間あまり、食事をしながら孫さんの話を聞いた。それから、私達はスーパーの近くまで戻って別れた。孫さんの相談事はボーイフレンドの事だった。孫さんは勉学とアルバイトの事で頭がいっぱいで、交際まで余裕がない。だから、交際を申し込んで来た相手を断りたい。それについては、相手を傷つけずに断わるにはどうのように言ったらいいのだろうかという事だった。私は返答を保留した。傷つけずに相手からの交際を断るなんて出来るのだろうか。


 部屋に帰ってパソコンの電源を入れ、私はベッドの上に転がった。何もない部屋。この部屋に来て3ヶ月にもなるのに、装飾らしいものは何もない。まるで私の心のように。
若い孫さんの相談事が、青春時代を思い起こさせて何かしら悲しくなった。
 数日前に、私の様子を見に来た娘は、私の部屋を見回して訝しがった。


「お父さんの写真もないの?」
「そうね、もう終わった事なんだよね」
私はその時、素っ気なく答えた。
 心の中から消えたと言っても、決して消えはしない。そう娘と息子を成した間柄だもの。夫婦は2世と言うけれど、そんな言葉は私にとっては死語なんだわと、私はベッドの上でひとりごちた。


「大和田さん、2階のどこかに図書館ほど本が置いてあるお部屋があるのご存知?」
夜の十時にスーパーの勤務に入った時、もう6年も深夜勤務をしているという明理さんが私に言った。
「図書館ほど? なあに、それ?」
「うん、本好きなんですって、ここの社長」


「ふ~~ん」
そう言いながら、果物をいっぱい買った社長の顔を思いだそうとするが顔が浮かんでこない。紺色セーターの裾あたりだけが思い出される。
 午前1時までの3時間が私の担当時間だ。社長が果物を買いに来ないかしらと、私はなぜか心待ちにしていた。本好きと聞いただけで、私の心はときめいていた。
 夜のレジは2台が稼動しているが、明理さんが店内の品物の補充の仕事に回ると、ひとつは篭をたてて休止になる。すると、私一人だけが2番レジに立っていることになる。


夜の10時は京都においてはまだ宵の口である。喧騒をさけて夕方の買い物を避けた老人たちがゆっくりと買い物を楽しみに来る。そして、これから仲間で食事を楽しもうとする学生たちも三三五五かたまってやってくるのだ。
 新札発行で、樋口一葉の五千円札も見慣れてきた。一万円札に付けられたきらきら光る模様も慣れて、気にならなくなった。しかし、聖徳太子の一万円札を知っている私にはどれもなんだか値打ちがないような気がする。けれども、レジを開けるたびに、そこに樋口一葉がやや横向き加減で鎮座しているのは、本好きな私にとっては気分の良いものだった。


 一葉を見る度に、斎藤緑雨の事が思い出され、一葉の恋に思いが移っていく。そして、生前緑雨の事をよく話した亡き夫の事も、その続きに思い出されてくるのだった。
「はい、一葉でお払いしますよ」
ぼんやりと一葉に思いを馳せていた私は、その声にはっと我に帰る。果物をいっぱい入れた篭をレジ台において、50少し前のお客が立っていた。紺のセーター。


檸檬15個、りんご3個、オレンジ2個、そこまでレジのスキャナーを通してから、私は思わず果物から顔をあげて、お客の顔を見た。
にこやかな涼しい目をして、社長がそこに立っていた。
 私は客用スマイルを社長に返してから、高鳴る胸の動悸を押さえて、それでもなんとか平坦な気持ちで、篭の中の賞品をスキャナーを通して別の篭に移し変えた。


「1876円のお買い上げでございます」
少し語尾が震えそうだったけれど、私はしっかりと最後まで言った。
 社長が朝陽マークのカードを出し、樋口一葉の5000円札をレジの代金受けに置く。
「3124円のお返しでございます。またお越しくださいませ。」
言うべき事を言ったけれど、もう顔を見られない。お釣りを社長の掌に乗せるのがせいいっぱいだった。


 何事もなく社長は篭から果物をナイロン袋に移し、自動ドアから出て行った。社員がすっ飛んできた。
「大和田さん、社長にお疲れ様でしたって、声かけてくれましたか?」
と詰問調に私に言う。
「あっ!」
私が声をあげると、彼は眉間に皺を寄せた。
「パート社員の教育ができていないと、社長に思われるじゃないですか。困った人だなあ」


 私は平謝りに謝ったが、彼はむすっとし顔で、きびすを返して持ち場に戻っていった。
「そんなに気になるのなら、自分が社長に言いにくればいいのにね」
いつの間にそばに来たのか、明理さんが笑いながら私の肩をたたいた。
「で、ハンサムだった? お気に入りのマスクだった?」
明理さんはにやっと笑いながら私を覗き込んだ。
「それがねぇ、目だけしか見られてないの」
「そうよ、初めての時って、誰でも緊張するよね」


 明理さんはあっけらかんと言い、伸びをしながら持ち場に戻っていった。
 目を閉じて、社長の顔を思い出そうとするが、思い出せない。こんなに緊張したのは、久しぶりの事だった。
ふと、思い当たって、レジの記録紙を送りだし、社長の買い物の明細を見た。檸檬15個、りんご3個、オレンジ2個、バナナ一房、大蒜、米酢、数量も値段もこの前とおんなじだった。私は声をあげて笑ってしまった。でも、こんなふうに同じ物を買うなんて、きっと独身なんだと、私は自分用に頭の中にこしらえているプロファイリングと照らし合わせた。


 ジュース類の所で品出しをしている明理さんに近づいて、小声で聞いた。
「ねぇ、ひょっとして、社長って、奥様いらっしゃらないの?」
「あら、よくわかりますね。さすが主婦の目はするどい~~!」
明理さんはウインクしながら言った。
「ええ、独身らしいですよ、もったいない。でも、好みありますもんね」


「そんな意味じゃないけれどね、あんな買い物の仕方って、奥さんがいる人はしないんじゃないかって」
私が答えると、明理さんがつっこんできた。
「じゃ、どんな意味なんです?」
「うん、自分の推理が当ると、面白いの」
 私はそう言うと急いでレジのところへ戻った。お客がいなくても、レジ担当者はレジの前に立っていなければならないのだ。


 独身なんだ、だから、いつも同じセーターなんだ。私は心の中で呟きながら、サワーか何かをつくるのかなと、先ほどの果物と酢のコンビネーションをあれこれ思い描いた。
それにしても、大蒜は何につかうのだろう、緑の袋にはいった大きな大蒜はそれだけで、不思議な果物に見えるほど外の白い皮と形が素敵である。私は、網篭にはいっている大蒜をキッチンにいつもつるしておいた。それは虫除けのためであったが。


「あのう」
 おずおずと、若い女の子が私に近づいて来た。
「表のベンチに、本の忘れ物が」
 彼女の手に、古い文庫本があった。
「こちらでお預かりしておきます、ありがとうございます」
 私はお礼を言って、本を受け取った。文庫本はクリスマス模様の包装紙できちんと表紙が作ってあった。書店名の印刷がないから、どうやら独自の紙で作ったものらしい。


 最後のページを見る。これは私の癖で、どんな本も最後の刷りの所をみてしまう。これは第何刷なのか、それが気になるのである。
そのページの下に日付とサインがしてあった。本は古いもので、紙の白い部分が色あせて変色している。公孫樹の葉が栞がわりにはさんであった。その箇所を読むと、私の胸は高鳴ってきた。見覚えのある文章がそこにはあった。


 こんなに大事にしてもらうって、お前はしあわせだねと本に囁きながら、私は持ち主の本好きと優しさをそこに見たような気がした。
 どんな人がこの本の持ち主なのか、確かめてみたいと思いながら、私は忘れ物用のノートに本の名前を記載して、それから、文庫本を一階の事務所の忘れ物箱に入れにいった。
 その夜、私は文庫本の事が気になって、ずっと眠りにつくことができなかった。


 レコード、CDの類は全て、上賀茂の家においてきたが、明日、息子にこちらへ運んでもらおうと思いつく。音楽なんて、夫との思い出を呼び覚ますだけだからいらない、そう思っていたけれど、今夜はつくづく音楽を聞きたい気分だった。
 公孫樹の樹の下であの本を読んでいた人がいる、そのことだけでも、自分が音楽を遠ざけていた事が悔やまれてならない。好きな物は大切にしなければならないのだと・・・。


 ベランダにでると、月光の中に公孫樹が枝を広げていた。午前3時、街は生きている。車の音も賑やか…….。
 公孫樹は時々、はらりとその葉を落とす。。古都の冬の風に、公孫樹の枝が揺れるばかりだった。



 

社長と檸檬 (2)

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月20日(土)13時08分56秒
編集済
 



 クリスマスソングが、スーパーの中に賑やかに流れている。
 一週間前から、いろいろな国からのシャンパンが木箱から出されて、並べられていた。その中に、有名な「ドンペリ」が真っ黒な瓶に金の封印をして、安いお値段のシャンパンの中に鎮座していた。見る人は「ドンペリ~」といいながら、ため息をつき、横の2000円弱のシャンパンを買い求めていった。ドンペリ、12000円、これでもお安いほうのドンペリらしかった。


「大和田さんは、クリスマスどうされるの?」
孫さんがにっこりしながら話し掛けてきた。
「何も予定きまってないのよ。ひとりで過ごすしかないけれど」
笑顔で答えたが、心なしか孫さんの顔が淋しげ……
「時間終ったら、お茶しようか」


私が声をかけると、孫さんは「うん!」と嬉しそうに頷いた。
 その日は、苺や、生クリーム、ケーキ材料などがたくさん売れた。明日はスーパーの表入り口で、七面鳥に見立てたチキンの丸焼きが売られるそうで、準備があわただしく行われていた。


夕方、スーパーの前で、孫さんを待っていると、大きな公孫樹の大木から黄葉がはらはらと、とめどなく落ちてきた。ベンチに座っている私の上にはらってもはらっても、黄葉は降りかかる。私はなんだか森の中にいるような気分になって、じっと座ったまま、黄葉に包まれていた。


 こんな事は初めてだった。心の中にある私の庭にも真黄色になった公孫樹は降り積んでいった。 孫さんがやってきて、私は公孫樹の樹下から離れ、二人して百万遍へ向かって歩き出した。
「大和田さんはどうして、一人暮らしなんですか?」
孫さんが尋ねる。


「ええ、いろいろあってね、自分の生活を確保したかったの。息子夫婦と一緒に暮らす事になったんだけど、知らない人と暮らすのは大変だから」
 私は、嫁の事を知らない人といって、少し棘あるかしらと思った。結婚してから、息子も知らない人になったとは、言えなかった。


「中国では大家族は当たり前なので、大和田さん、淋しくないかなと思ったのです」
孫さんは、少し気遣うふうに私を見た。
「大勢でくらしても、心が寂しい時はありますよ」
私はにっこりと微笑みながら、孫さんに答えた。孫さんは考え込むようにして、私から、足元に視線を移した。


暫く無言のままで私達は、東山に向かって歩いた。
「お好み焼き、食べようか」
私は思い出したように元気な調子で言い、孫さんの手をひっぱって、お好み焼き「茶花」に入った。


香ばしいタレの匂いが店の中に充満していた。ジュ―ジューとタレの焼ける音も、食欲をそそる。二人して案内された奥のテーブルで、冷たくなった手を鉄板の上にかざして、にっこりと微笑みあった。孫さんもひとり、私もひとりの、クリスマスイブの前の日だった。
 もちとチーズの入ったお好み焼きと2個と飲み物を注文してから、私は孫さんに話し掛けた。


「彼の事、どうしたの?」孫さんは、少し俯いて答えた。
「断ろうと思ったんですが、なかなか断れなくて。でもやっとこちらの事情を言ったら、納得してくれました」
「まあ、良かったじゃないの」
「それが、少しも良くないのです。わたし、勉強にも仕事にも身がはいらなくて……」


孫さんは、そう言ったまま、おしぼりをたたんだりのばしたりしている。
「孫さんのほうが、今度は好きになってしまったのね」
そう言って私は、彼女の顔を覗き込んだ。
今にもこぼれそうなほどに涙をいっぱいためて、孫さんは私を見つめてきた。


若いっていいな、と私は思った。泣けるほど相手を好きになる、そんな感情、もうどこかへ行ってしまった。私に残っているのは死んだ夫に対する恨みがましい心や、息子夫婦への何ともいえない苛立ちばかりだった。
私は、孫さんの手の上に両手をのせると言った。


「うまくいくように、考えましょうね。ほら、笑って。恋する乙女は素敵な笑顔でいなくてはね」
孫さんは、片手で涙をぬぐうと大きくうなずいた。
熱くなった鉄板の上に「茶花」特製のもちチーズ入りのお好み焼きが運ばれてきた。その上にマヨネーズでハートを書いてあげると、孫さんは真っ白な歯を出して、声を立てて笑った。


 恋とは不思議なもので、言い寄られると引きたくなる。最初に自分の心のほうが何がしか感じていればまた違うが、何も思っていなかった相手からの場合だとそうなってしまう。好意を持たれているのに、引くのはどうしてだろう。
 孫さんもきっとそんな心境だったのだろう。けれども断ったあとで、相手が素直にそれを認めてくれると、反対に情が湧き出してくる。しつこく言い寄ってくると疎ましく感じるのだろうが、こうあっさりと諦める事をされると、気になるものらしい。


 恋は駆け引き、と良く言われるが、この気分の変化はどんなに言葉を尽くしても説明しがたい。孫さんは恋の流れに少し足をとられているようだった。
「大和田さん、社長から何かお話ありました?」
唐突に孫さんが社長の話を持ち出してきた。
「いいえ別に。何かあったの?」


「何だかね、大和田さんを広告の部署に回せないかって、お話してるのを聞いたのです」
と、孫さんが続けた。
「更衣に行く時、社長室のドアが少し開いていて、中で店長と社長がお話していました。大和田さんがパソコンが出来るらしいから、広告のほうに回ってもらってもいいかと、社長がおっしゃってました」
「あら、私、社長とは正式に面識ないんだけれどね」


「ご主人とお知り合いだったとかで、大和田さんの事、良くご存知のようでした」
「あら、そうなの」
その、一言で、孫さんは立ち聞きした気まずさを説明して、だまってしまった。私も、夫の知り合いだった面々の顔を思い出すが、スーパーの社長をしている友人の話など、聞いた事もなかった。
 夫を良く知っているのなら、スーパーを止めようかなと、心に雲が垂れ込めてくるのを感じた。


「はい、社長の話はやめ~。美味しく飲んで食べましょ」
私は明るく言って、孫さんのコップにビールを注いだ。鉄板の上のお好み焼きは、ほそい千切りの花かつおが湯気でゆらゆらと揺れていた。
「げそ、焼いて頂戴」
 私は、学生らしいアルバイトの店員に声をかけてから、孫さんに微笑んだ。


ほろよい気分で「茶花」を出ると、外は風花が舞っていた。
 マフラーをしっかりと首に巻き、雪が襟から入り込まないようにして、私達は自宅方向へ向かった。京都は西に向かうと少し下り坂になっている。
 ほてった頬に風花は心地よい。黙り込んでいる孫さんが気になって覗き込むと、孫さんが声を殺してしゃくりあげていた。


「好きになってしまったんです。断られてから、余計に気になって……」
 とぎれとぎれに言葉をだして、孫さんは私に抱きついてきた。
「あらま……」と私は声をだして、孫さんの腰を抱いた。背が高い孫さんの肩には手が届かない。私は立ち止まって彼女の背中を撫でた。


 恋をした若い女性の慟哭が、私に伝わってきた。懐かしい感情が私を包んだ。恋して泣けるなんて、久しくそんな事はないなと思いながら、孫さんの背中を撫で続けた。孫さんはずっとしゃくりあげていた。
 風花は私たち二人を中心に舞っているかのように、流れるような輪を描いて落ちてきた。
 これでは、キューピッドの役をしなければなるまい、と私は自分に言い聞かせた。


激しい気分の高揚から少し冷めたようなので、私は孫さんを促して歩きはじめた。道は下り坂、言葉もなく静かに私達は歩いた。
 恋する女と、もう恋からは遠ざかっている女の、二つの足音が混じる。
 うらやましい気分と、過去を振り返る懐かしい気分とが交互に、私の身体を満たした。
 「もう今夜は遅いからお茶はしないけれど。二人のキューピッドになってあげるからね」
と、孫さんと握手をした。孫さんは目で私にうんと甘えたように返事をした。


マンションの前はびっしりと公孫樹の葉が落ち、黄色い絨毯のようになっていた。落ちたばかりの一枚を拾って、私は孫さんに渡した。
 「今日の恋の涙の印に、押し花にしてごらん。素敵な想い出になるから」
孫さんともう一度握手をして、私はマンションの外階段を上った。
 風花と公孫樹と、今までにない風景が私を心地よく包んでいた。
 二階まで上がって階下を見ると、孫さんが交差点の真ん中で、私を見上げて思い切り手を振っているのが見えた。


 マンションの玄関を開けると、娘が持ってきたシクラメンが蝶の羽のように花びらを広げている。シクラメンは篝火草と書くんだよと、亡き夫が教えてくれた。奈良の春日大社で薪能を見たとき、篝に入った火を見ながら説明してくれたのだ。ほんとうにシクラメンは篝火のようだった。
 いまでは、夫の好きだったものは全て遠ざけているのに、このシクラメンだけは嫌いになれない。白も紅も、どんな色であれ、シクラメンは私の心を捉えてはなさない。


お酒で火照った頬を手で押さえながら、私はベッドに転がった。天井には娘が貼ってくれた星が七つ、北斗七星の形をして並んでいる。
 夜光塗料が塗ってあるのか、明りを消すと、薄い黄緑色で発色する。星を眺めていると、ふいに、涙が目尻からこぼれた。


「君を幸せにするよ」
と言った夫が、私の心に大きな傷を作った。出張で行ったはずの北海道で心筋梗塞で急逝した時、傍らには十年来の愛人が泣き崩れていたのだ。夫の急逝と背信と、二重の悲しみに私は打ちのめされたが、葬儀だけは気丈に妻の役割を全うした。
 弔問の人々に会釈を返しながら、自分の顔が青ざめているのを感じずにはいられなかった。人々の視線が好奇の眼差しに見えてきて、心は寒々としていた。


個人商店とはいえ、社員も30名近くいる呉服店主夫人としての幸福な立場から一転して、私は好奇の目に晒される事になった。肩肘を張ってそれに耐えた。誇り高く何事にも動じない振りをして一連の行事をこなしていった。夫に対する愛憎よりも、自分を自分で守らなければならないとそればかりを呪文のように唱えていた。


 相続の遺産分割協議書に判子を押すまでが大変だった。妻である私の取り分を法定の二分の一にすると、私に何事かあったとき、また相続でごたつくのは厭だからと息子が言い出し、なかなか治まりがつかなかった。息子への嫁の入れ知恵もなんとなく感じられて疎ましい限りだった。
 遺産を挟んで心が少しずつ離れていくのがわかった。


最初の一年は愛人の存在が私の心を支配していた。夫の残したものはびた一文要らないと憤懣やるかたなしで終始いらいらしていた。夫の事を丸ごと信じていた浅はかさを、息子や娘がどのように思っているのかと、それを思うと奈落の底へ落ちるような侮辱を感じた。


それを助けてくれたのは、学生時代の友達の理沙子だった。
 「そのイライラの分だけ財産をもらいなさい。それが旦那からの慰謝料だと思えばいいじゃない。お金はあっても邪魔にはならないから」
 彼女は夫と審判離婚をしていた。娘二人の親権を巡って争いになり、裁判に判断を委ねたが、彼女に経済力がないという理由で親権は相手側に持ってゆかれた。


 理紗子の苦々しい経験を聞いて、私は夫の残した財産を手にする事にした。ほとんどは会社組織になっているため、個人のものはそれほどなかったが、監査役として呉服問屋の中に名を連ねているのをそのままにして、私は条件のおおむねに納得して協議書に判子を押した。その時点から、私は息子や嫁と、一線を画す決意をしていた。
 娘にはまだ別の思いがあった。


 けたたましい鴉の鳴き声に目が覚める。
ベッドに起き上がって、しばらく闇の中に目をこらしていたが、素足のまま床に立ってベランダへ向かって行く。
 時間は午前5時、冬の京都はまだ薄暗い。そっとカーテンの隙間から外を見る。おびただしい数の鴉が電線に止まっていた。そして一様に一定の方向を見ている。


 夫が亡くなる時もそうだった。
 上賀茂の離れの屋根におびただしい数の鴉の群がやってきた。盆栽の手入れをしていた夫は、大きな声で鴉を追っ払っていたのである。
「あなた、どうしたの?」
声をかけると夫は答えた。
「鴉の群は、魂を迎えに来るというからね。僕はまだお迎えはいらんから追っ払っているんだよ」
「まあ、そんな事ってあるの?」
私は笑いながら彼の背中を見て言った。


 鴉たちは屋根にしつらえたソーラーのプラスティックの盤面にうつる自分の姿を、相手と思うのかコツコツとくちばしで叩いている。
 夫が大きな声を出して追っ払う仕草をしても、鴉は動じないでいた。
 それから程なくして、夫は旅先で倒れ、あっけなくこの世を去った。


四十九日の法要が済んで、仏間でひとりぼんやりと夫の遺影を見ている時、騒々しい鴉の鳴き声がする。外に出てみると、夫が亡くなってからは、忘れたようにぷっつりと姿を見せなくなっていた鴉たちが屋根の上を闊歩していた。その時、夫の言葉が思い出されて、今度は誰を呼びにきたのかと、私はおびえてしまった。


 黒い群の中に、真っ白な鳥が一羽混じっている。最初、鳩ではないかと思わず目をこすってみたが、それは確実に真っ白な鴉だった。
 私が下駄を鳴らして、飛び石の上を離れに向かって走ると、鴉たちはいっせいに飛び立っていった。
 白い鴉は、最後まで屋根の上にいたが、私が立ち止まってもう一度しっかりと見極めようとすると、羽を大きく広げて飛び立っていった。


 白い羽が頭上に舞い降りてきた。
 夫が亡くなった時と現実が交錯して、私は思わずガラス窓を開けてベランダへ出た。
 「私を迎えに来てもいいのよ」
私は呟いてしまった。そうよ、逝きたくない人を迎えに来るのなら、私を迎えにきてもいいのよ、私は小さい声でしっかりともう一度呟いた。新しい生活を始めたばかりなのに、心の中に広がっている虚無感は思わぬ勢いで、私の中で増殖していた。


涙が溢れて止まらない。
 冷たい師走の夜明けの空気の中で、私は嗚咽していた。原田康子の書いた小説「挽歌」の中で、桂木に対して「コキュ」と言い、怜子が抱きしめられる場面がある。それを思い出した。もう抱きしめてくれる夫はこの世にはいない。憎くてたまらないはずの夫を恋しく思っている自分に戸惑いながら。


 愛すべきものを失い、憎み、恋しがる。忘却の彼方に追いやりたいと懸命に努力しながら、それができないでいる私と、恋の真っただ中にいてもがいている孫さん、この二人には大きな違いがある。涙も辛さも同じなのに、孫さんの涙は桜のようにほんのりと紅色で、私の涙は血にまみれているような深紅だった。


 夜十時、制服に着替えて、スーパーのレジの前に立つ。
 朝のあの高揚した気分は失せて、店内のざわめきに心がぴんと張っている。こうして仕事がある事は、限りなく崩れていく内面を元通りにする効果があると、私は感謝した。師走の賑やかな音楽がいっそう私をポジティブな方向に引き立ててくれた。


「今日から、正月用品が出てきますから、値段が変わります。入力できていないものがあれば、店内放送で僕を呼んでください。決してレジからは離れないでくださいね。不審者が来た時や危険な感じを受けた場合は、このボタンを押してください。警備員がすぐにやってきますから」


 レジ担当者に、夜勤の社員が説明してゆく。不審者が来た時、社員にそれとなく知らせる方法も教えられた。歳末に向けての準備は品物だけではない。ずっと買う側にいた私には、これらの事が、とても新鮮に感じられた。息子からは仕事などせずに、今まで通り、俳句や水彩画のカルチャーを極めたらどうだと、たびたび電話があった。小遣いが足りないのならぼくがあげるよと電話の向こうで言ったが、私は取り合わなかった。自分の世界に閉じこもるなんてもう真っ平、私はさまざまな人と楽しい時間を共有したいと考えはじめていた。


レジをして知ったことがある。世の中にはなんと一人暮らしの人間が多い事か。そしてその一人一人がそれを歎いているかといえば、そうではない。自分の時間を自分のために使って、楽しそうにしている。私は目からうろこが落ちる思いであった。今までは、家族のために生きて来た。これからは自分のために生きてゆきたいと、切実に思う。
 そうよ、夫や子どものために生きてきたのに、それなのに夫は……。


「おや、何か考えてますね」その声にはっと我に返る。
 社長が、檸檬15個を一番上にのせて、果物いっぱいの篭を、私の前に突き出して笑った。私は思わず会釈して、篭を受け取り、品物のバーコードをスキャナーに通した。
 いつも通りの品、そして数。合計がでると、私は、社長から一葉の絵の5000円札を受け取り、釣り銭を彼の手に返した。


無言の簡単な会釈を私に返してレジを離れた社長は、別の台でナイロン袋に果物を入れドアの外に消えた。後には私の声だけが残る。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
 外は闇、師走の風は冷たいだろうに、社長はたったひとり灯りのついていない自宅に帰るのだ。私は、彼の暮らしぶりが気になった。そう言えば、この間も、その前も、彼が着ていたのは、少しくたびれた紺色のカーディガンだった。


 商品を缶ビールを箱から出して、棚に陳列していた明理さんがやってきて囁いた。
「社長、お疲れのご様子ですね、どうなさったんでしょう」
「私はミスしないかと、そればっかりだから気がつかなかったわ」
 明理さんに答えてから、社長の事が妙に気になりだした。
 一介のパート従業員が社長の事を心配してもはじまらないと、自分に言い聞かせながら、私は店内を見渡した。


明理さんも所定の位置にもどり、商品を次から次へと陳列しはじめた。音楽は軽快なポップスに変わっていた。十二時までに常連の買い物客が来店する。一言二言の世間話を交えてレジをしなければならない。手と口と笑顔と同時進行はなかなか難しいが、それでも大分慣れてきた。 胸の名札を見てお客さんが名前を覚えてくれるのも、なんだか嬉しくてつい愛想をふりまいてしまう。


 監視カメラがレジにむけて設置されているから、事務所のテレビには私の行動が映しだされている。声は出ないからいいようなものの、のろのろ作業やトラブルはチェックされるので、いつも気持ちは緊張の連続なのである。パートを統括している三十代の女性社員の目も気になる。
十二時近くになると、お客も途絶えて、レジは少し楽になった。ぼんやりと外を眺めながら、夕方に孫さんと約束を交わした事を思い出す。


明日は、孫さんの相手と三人でお茶をすることになった。久しぶりに河原町へ出ようと話した。静かな喫茶店より、賑やかな繁華街、四条河原町で会ったほうが気分も快活になるだろうと。 孫さんの恋をまとめるつもりなのに、なぜか気分が華やいでくる。どの洋服を着ていこうかと、マンションへ持ってきた洋服を思い起こしていた。まるで自分が恋しい彼に会いに行くような気分である。自然に笑みがこぼれる。どんな相手なのかしら、と想像は膨らむばかり。




 

社長と檸檬 (3)

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月20日(土)13時04分7秒
編集済
 





四条河原町西入北側に「京料理・田ごと本店」はある。打ち水をしてしっとりと濡れた石畳の路地の奥に、ちいさな池がしつらえてあり、緋鯉が二匹優雅に泳いでいた。
 待ち合わせの時間より三十分早くついた私は、小部屋に案内された。昨日のうちに予約を入れておいて、奥まった部屋を用意してもらっていた。畳の部屋に掘り炬燵が切ってある。ちょうどテーブルに腰掛けるような感じの楽な姿勢で、和室を楽しむ事ができる。


 床の間の一輪挿しには寒椿が生けてある。京都の風情が感じられるたたずまい。繁華街の真ん中にある静かなお食事処、手軽な感じで「京都」を満喫できるとあって、いつも満室であった。知る人ぞ知る京都の穴場である。
 お昼時には河原町へ買い物に出てきた女性たちで満杯になる。


 二人のために「季節の懐石」を予約しておいた。先に支払いを済ませて、二人が来たら、言葉をかけてから、私は席をはずす事にしていた。お互いに思い合っているならば、他人の言葉などいらない。美味しいものを食べて、にこやかな笑みを交わせば、もともと孫さんの事を好きだった彼だから、きっと心が孫さんに戻ってくるだろうと、私は考えていた。


 私があれこれ思いを巡らせていると、仲居さんに案内されて二人がやってきた。孫さんの頬が幾分か染まっているような感じがして、私は心の中でほっとしていた。
 孫さんはパートの時と変わらない質素ないでたちで、髪も丁寧にではあるがいつものように後ろでひとつに括っているだけだった。
 相手の青年は……もう三十歳を越えているような感じだったが、孫さんと同じように派手な感じではなかった。青年が出した名刺には、大学の講師の肩書きがついていた。


 「娘と母のような感じで、孫さんとお付合いさせて頂いています。とても優しいお嬢さんなんですよ。これからもよろしくお願いしますね。今日は日頃、親しくして頂いている孫さんに京都のお料理味わって頂きたいと、お友達もご一緒にとお誘いしましたの。私も最後までご一緒させていただくつもりでしたが、のっぴきならぬ用事ができてしまいましたので、申し訳ありませんが、これからそちらへ参ります。孫さんの事よろしくお願いしますね」


 私は、初対面の挨拶のあと、深々とお辞儀をして、彼にそう言った。
不安げな孫さんには、「明日、会社でね」と手をとりながら言い、支払いを済ませてある事も告げた。そして、もう一度青年に会釈して、部屋をでた。
 路地を四条通りへでると、そこは紛れもなく師走の喧騒の中だった。行き交う人々の向こうに、高島屋が新しい歳の期待をいっぱいに抱いて建っていた。


 雑踏の海の中に押し出された私は、流れに漂いながら祇園に向かって歩き出した。正月への準備も私には必要でなかった。一人暮らしならば、二十四時間営業のプラザの食材で充分事足りる。おせち料理のあれこれも、家族あっての料理であって、自分のためではなかったと、つくづく思い知らされていた。自分のためには何かを買いたいと、思わなくなっていたのである。


木屋町まで来た時、フランソワへ寄ってみようと思い立つ。四条通りの信号を南へ渡って、高瀬川沿いに少しさがると、昔ながらのたたずまいでフランソワがあった。フランソワは賑わっていた。私は本をバッグから出しながら、奥の部屋へ回った。二人掛けの席がぽつんと取り残されたように空いている。そこへ掛けて、私は色あせた本を広げた。


フランソワの室内は、昔と少しも変わらない。名をなした文化人の多くはここに集い、思索し、議論している。そんな噂に憧れて、若い時たびたびここを訪れた。新聞や雑誌で見知ったおぼえのある文化人が、ひっそりとあるいは数名の取り巻きと一緒に珈琲を楽しんでいた。わくわくしながらその傍らをとおり、離れた席からそっとその様子を観察したものである。


想い出がよぎっていく。
 注文したウインナ珈琲が運ばれてきた。私はフランソワではいつもウインナ珈琲を飲むことにしていた。真っ白な淡雪のように泡立てたミルクがぴんと角を立てていて素敵だった。あたりの話し声も音楽も、私の耳には入ってこない。泡立てたミルクの香りに引き込まれて、私はロマン・ロランの世界に入っていった。私は、リュース……。


「相席、よろしいですか?」
 その声に、本から目を離して見上げると、社長がにこやかに微笑んでいる。思わず立ち上がって、どうぞと答えた。
「年末だから空いているだろうと思ったんですがね、案外込んでいて落胆していたんですよ。でも、見覚えのある方がいたので、思い切って声をかけました」
 そこまで彼が言ったとき、ウエイトレスが注文を聞きにきた。


「ウインナ珈琲を、いつものようにね」
「かしこまりました」
ウエイトレスは丁寧に注文を復唱して、消えた。
「おや、あなたもウインナですか」
そう言いながら、彼はポケットから文庫本を取り出し、コートを脱いだ。
「どうぞ、あなたも本を読んでいてください。ぼくも本を読みますから。気にしないでください」
頷いて私は続きのページに目を落とした。けれども、二度と本の世界に戻っていく事はできなかった。


 本を広げては見たものの、お互いに本に没頭できなくて、私達は珈琲を飲んだ後、フランソワをでた。
 四条から河原に降りて、でこぼこな河原の散策道を歩く事にした。
「久しぶりだなあ。何年ぶりだろう」
感嘆の声を発しながら、社長はあたりを見回した。
「若い人が多いですね」と私は笑いながら返す。


 私にとっても、鴨川の河原に下りるのは何十年ぶりかであった。お互いに孫もあると思われるような二人が感慨に浸りながら、若者のデートコースを歩いている。そのおもはゆさに頬が赤らむ思いがした。
「学生運動の頃にね、大橋の上からここへ飛び降りたのがいるんですよ。半身不随になって、夢を失ったのがね。それ以来、ぼくはここへはこれなくなりましてね」
 思わぬ言葉を聞いて、私は慄然とした。夫の友人だとは声に出せなかった。京都は狭い。
「仕事なれましたか?」


声の調子を明るく変えて、社長が尋ねてきた。
「はい、とても」
私はまだ、飛び降りた彼の世界にいた。
それから、話は続き、河原のでこぼこにヒールをとられて、ふらふらするたびに、彼に支えられて、私達は歩いた。


 気がつくと八つばかり在る橋を全部越えて、北山のあたりまで来ていた。
 あたりは夕暮れて、茜色の雲が欅の冬の木立の向こうで鮮やかに輝いていた。
 ベンチに腰掛けて、夕陽が沈むまで数分間、ふたりしてぼんやりと西山を眺めていた。
 夕陽が西山に落ちた後、北山通りにあがってタクシーを拾い、私をプラザまで送って、社長は自宅へと帰っていった。


―夫の位牌も持たずに家をでるなんて、そんな非常識な事がまかり通ると思っているの。そんな事だから、敏行に浮気をされるんやわ―
―翔子の胸の中にはぼく以外の男の影がある、それを感じるよ―
―この家を出るってことは、病気になっても私に世話になりたくないっていうことですのね―


―孫が可愛くないんですか、お母さん―
―お母さん、私はここのうちからお嫁に行きたいのよ、お母さんがいなくなったら、私、どうすればいいの―
―あなたの纏っているもろもろの着物を脱ぎ捨ててぼくのところへいらっしゃい―


様々な声が私を取り巻いていた。私はベッドに起き上がった。汗でぐっしょりとパジャマが濡れている。へんな夢を見たものだ。義姉、夫の敏行、嫁、息子、娘、そして……。心にわだかまっているものが全部夢の中に現れたような、何とも言えない気分だった。
 キッチンへ立って、またあんな嫌な夢を見るのは嫌だなと思いながら、なんだか熱っぽいので、薬箱の中から風邪薬を探しだして飲んだ。


なんだか泣き声がするので目を覚ますと、あたりは真っ白な壁だった。私の手が握られている。娘の汎子が私を覗き込んできた。
「ここは、どこなの?」
「お母さん、時間になっても仕事に出てこないからって、お店の人が心配してくださったの。電話してもドアを叩いても返事がないからって、知らせてくださったの。どうして睡眠薬なんか飲んだのよ……。二日間も眠ったままなのよ。びっくりして病院に運んだの」


泣きじゃくったらしい目の腫れに、私は何事か訳がわからなかった。
「なんで、どうして? 淋しいなら淋しいって言ってくれれば良かったのに……」
「汎子、私は風邪薬だと思ったけれど、睡眠薬を飲んだのかしら?」
 私の問いかけに、汎子はぽかんと口をあけたまま、私を見た。
「お母さんのノートに、淋しいって何度も書いてあったよ」


「ノート? ああ、あれね、友達と電話している時に、相手がそう言って泣いたから、書きながら話していただけで、他意はないのよ。書きなぐっていただけ」
「…………」
「それより、もう、自分の部屋に帰りたいけれど、だめなの?」
「今、兄さんが院長室に行っているから、だって、へんな噂が立つと困るから、内緒でここへ入れてもらったのよ」


「まあ、大げさな。私が死にたくなるはずないでしょ。るんるんで一人暮らし始めたのに……」
 汎子が私に抱きついてきて、また泣き出した。二十五歳の娘に抱きつかれて、私は自分が母親である事を思い出さずにはいられなかった。


その日の夕刻、私はこっそり退院してマンションに戻った。薬箱は息子と娘によって、きっちりと内容が確かめられた。
 夫が亡くなった頃、眠れないでもらっていた睡眠薬を風邪薬の壜に入れていた。それをすっかり忘れていたのである。大事に至らなかったから良かったものの、息子からは厳重な注意を受けた。


その夜八時ごろ、薄紅色のミニバラのお見舞いの花束が届いた。見舞い札に「ピエール」と書いてある。
 「お母さん、パートの中に留学生がいるの?」
汎子が聞いてきた。
「うん、ユニークな人がいるのよ」
私は答えながら、胸が高鳴ってくるのを抑え切れなかった。


 二、三日泊り込むという汎子を無理やり帰して、私はやっと一人になれた。薄紅のミニバラが二〇本、カットガラスの大きな花瓶に生けてある。
 ピエールと言う名前に微笑まずにはいられなかった。
 フランソワから北山までの間に、いろいろな話をした。それを一つ一つ思い出しながら私は胸のざわめきに、甘い懐かしさを覚えていた。


パートのレジは病気という事で、年明けまで病欠の扱いをしてくれたらしい。シフトも決まっていたはずなのに、申し訳ないと思いながら、それでもなんだか店に出るのが少し怖いような気がしていたので、助かった。
 音楽を聴きながら、私は幸福な気分に浸っていた。
 気になっていた孫さんからは、携帯に伝言が入っていた。入院騒ぎで今まで気付かなかったのだが。


「美味しい京料理、ありがとうございました。二人で一緒にがんばる事にしました。大和田さんのお陰です。うれしいです」
 押えた声ながら、孫さんの心がじわっと伝わってくるような話し方だった。孫さん、私も恋におちたみたい……。私は心の中でつぶやいた。


夫が北海道で客死したとき、傍らにいたのは親友の亮子だった。十年来の愛人関係だとその時知らされた。息子はうすうす感づいていたようだが、波風を立てたくないと私には、おくびにもださなかったらしい。亮子が離婚した時、私は彼女のひとり立ちについて、夫の敏行に相談をかけた。私の親友という事で、彼は親身になって相談に乗ってくれた。その事が二人を急速に近づけたようだった。


その事に十年間も気付かず、二人を信頼していた私もなんとおばかだったのだろう。晴天の霹靂だった。一気に夫への憎悪、亮子への嫌悪が噴出した。しかし、そこから先、心は持って行き場所がなかった。
 夫は何事もなかったような顔で棺の中に眠っている。自分でも考えられないほどの冷静な「翔子」が、私の内部から生まれてきた。


 それは冷たい仮面をかぶった「翔子」だった。爾来二年、三回忌を終えるまで、私は自分を殺して生きた。亮子に対する意地でもあった。好奇の目に耐える私の鎧でもあった。内面を誰にも見せずに私は自分の殻に閉じこもった。二年間のカレンダーは一日が終るごとにバツ印をつけた。
 油性のマジックでしっかりとバツ印をつけた。憎悪の気持ちを押えて。


 正月元旦、京都は深い雪に包まれた。
 静かにベランダのガラス戸を開けて、物差しを突き立ててみると、私の持っている短い物差しは埋まってしまった。20センチをはるかに越している。元旦に積雪とはめずらしい。今年は何か良い事があるような気がして、私の胸はわくわくした。


上賀茂に住んでいる時、こんなドカ雪の日は表の通りにでて、雪の玉を転がし、雪だるまを作った。小学生の息子や娘と同じぐらいの背丈の雪だるまである。帽子は砂場遊びの赤いプラスチックのバケツ。目は木炭、口はにんじん。定番の雪だるま、想い出に顔がほころんでくる。


ふわふわとした綿のような雪だった。球形に握っても丸くならない。きゅっきゅっと音がするほど硬く握って、ちいさな雪だるまをこしらえた。春慶の朱塗りの盆を持ってきて雪だるまを置き、その横に雪兎もこしらえた。室内に持って入ると暖房で溶けてしまうので、雪を被ったベランダのテーブルの上に置く。ひとり住まいだと、こんな喜びを誰に伝える事もなく時間が過ぎていく。すこしわびしい気分になっていた。


電話のベルが鳴ったので出てみると、息子からだった。年賀状を持っていくからと簡単に言って切れた。元旦は年賀状を見るのが楽しみだった。それも夫が生きている間まで、その後は年賀状が苦痛になっていた。年賀状に添えられてある私を気遣う言葉がいつも胸に刺さった。その言葉を棘に感じている、それがまた自己嫌悪の元になるのだった。


息子に逢いたくない。私はバスルームに向かうとシャワーを浴びた。全身を映す鏡の中の自分を見つめる。どこからか聞こえてくる「未亡人」と言う言葉。シャワーの音で洗い流す。うなじも腕も、全身まだ水滴をはじきかえすほどに艶やかなのに、心の中に澱をためている。それが顔のどこかに現れている。上賀茂を脱出してきたのに、まだ未練を引きずっている私がそこにいた。


 一番お気に入りの赤いセーターに黒いスラックスをはく。思い切ってアイシャドーも入れ、口紅も輪郭をはっきりと描いた。大粒の真珠のイヤリングをして、口紅を引いた唇をゆがめて見る。紅がはみ出している部分をティシュでぬぐって私は鏡から離れた。チュニック丈のコートを羽織って外へでた。


ブーツが雪を踏んで軋む。
 心がなにか叫んでいるような気がして、私は急いで銀閣寺への少し緩やかな登り坂になった道を急いだ。その先には哲学の道がある。新雪の道を歩けるかも知れないと、ふと心が華やいでくる。雪の叫びが少しだけ遠のいた。



 

社長と檸檬 (4)

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月20日(土)13時02分43秒
編集済
 





哲学の道の橋に立った。
 桜の枯れ枝が雪色に染まっている。少し青みがかった白。車道は轍の跡が無数についているが、遊歩道の哲学の道は丸みを帯びた積雪の道がまだ踏まれずにあった。ブーツの縁すれすれの雪の深さである。私は少しためらっていた。


「おや、いたずらっ子がいますね」
 その声に振り返ると、社長がにこやかに立っている。
「そういう僕も新雪に惹かれてここへ来たんですが……」
 心を見透かされて、私はとっさに声が出なかったが、少し間をおいて元旦の挨拶をした。
「入院患者がこんな深い雪の日に出歩くなんてもってのほかですよ」
彼は笑いながら続けた。


「パートは病欠しているというのに、ですよね」
 私も笑いながら、ぼそぼそと言い訳をした。
「二人で新雪を侵しちゃいましょか」
 その言い方が面白かったので、私は声を立てて笑った。
 彼の足元は黒い長靴だった。
「長靴だったら冷えませんか?」


「冷えますよ。足の先が凍えています。でもそのうちぽこぽこと火照ってくるはずなんですがね」話すたびに彼の吐息が白くふわっと広がる。私たちは並んで新雪を踏み出した。哲学の道は二人で並んで歩くのが精一杯の細い道だった。


雪の下にある道を記憶の中から取り出して歩く。でないとどんな段差で新雪の中に転んでしまうかわからない。醜態を演じたくなくて私は必死だった。銀閣寺商店街の橋の手前で車道に降りることになった。その時私は階段を踏み外してしまった。雪の深さから検討をつけた階段の幅を見誤ってしまったのである。すんでのところで新雪に転がる所だった。社長の手が私の体を抱きとめた。とっさの事だった。私を支えようとしてポケットから、彼が手を出した拍子に、文庫本が真っ白な雪の中に飛んで落ちた。


「大丈夫ですか?」
 彼は私をしっかりと車道に立たせると、かがんで文庫本を拾った。表紙に見覚えがあった。それは公孫樹の樹の下のベンチに置き忘れられていたあの文庫本だった。
「社長の文庫本でしたの?」
「ああ、これ、そうです。この間忘れてしまってね。往生しました。いつもポケットに入れているのに、どこで忘れたのか思い出せなくってね。スーパーの忘れ物の陳列の中にあった時は、感動しましたよ」


「お正月なのに、クリスマス模様のカバーなんですね」
 私は言ってから、少し後悔した。彼の顔が少し沈んだように見えたのである。彼はそれには答えずに言った。
「あなたも、この間フランソワでこの本読んでいましたね」
 今度は、私が答えなかった。だまって、銀閣寺門前街への道を左に見て、哲学の道へ進んだ。


「お見舞いのバラの花、ありがとうございました」
「僕だってわかってくれましたか。どうかなって少し不安だったんですが」
「ええ、わかりました。フランソワで私の読んでいる本じっと見つめていらしたから」
 あなたはピエール……、そう言いかけて言葉を飲み込む。


 家が近所とは言え、こうして新雪を踏むために、哲学の道に来た偶然に、心は花を贈られた時よりももっとざわめいていた。
 哲学の道の真っ白な雪の世界は、今は私達だけのもののように感じられた。


 雪に包まれた哲学の道を、ひたすら新雪を踏んだ。俯いたまま足元を確かめるように歩を進める。彼が新雪を踏むたびに雪は声を上げた。私の足元の雪も呼応するように軋んだ声をたてる。それを楽しむかのように私は耳を澄まして歩き続けた。
 哲学の道は2キロ弱ある。時々足を止めて、桜の樹に積もった雪を眺めた。疎水だけがいつものように透明な流れを見せている。元旦の早朝、家の大黒柱であるはずの男と、屠蘇の準備に忙しいはずの女が揃って雪を踏んでいる。私は後ろめたさを覚えていた。それでもなお、この時間から逃げ出したいとは思わなかった。


哲学の道が永遠に続いていれば良いのにと、心の中に湧いてくるときめきを感じながら願っていた。年末、フランソワで会い、その後鴨川を散策した。あれから、一週間も経っていないというのに、この心の変化……。
 不意に彼が言った。
「年始客が来るといけませんから、僕は家に帰ります。この辺りから白川へおりましょう」
 法然院の坂道に来ていた。


「滑りますよ。さあ、ぼくに掴まって」
 彼の差し出す腕に素直に手を差し込んだ。
「もっと歩きたいですね」
 彼が私を覗き込んで言う。私も笑いながらうなずき返した。
「こう言う時なんですね。自分の肩書きが嫌になるのは。生来僕はのんびりと過ごしたい性格なんですよ」
 坂道をしっかり踏みしめ、私の手をしっかりとわき腹に挟んで彼は言った。



大通りに出ると、車道はチェーンを巻いた車が音を立てて走っていた。
 一台のタクシーが私達の前に止まった。それに乗り込むと、彼が本に挟んだ栞を取り出し、急いで何やら書き付けた。
「ぼくのホームページです。そこにメアドがありますから、そこからメールください」
そして、彼は付け加えた。
「あなたの履歴書に書いてましたね。パソコン歴、ネットできるんでしょ」



この間のように、彼は私をスーパーの前で私を降ろして、自宅へ帰って行った。なんだか許されぬ恋人達の後朝の別れのような感じがして、私は運転手の手前少しぎこちなかった。
 タクシーの影が見えなくなるまで見送って、私は急いでマンションの階段を上がった。公孫樹が全身に雪をまとって空に背伸びしている。それを少し眺めてから私はエレベーターに乗った。


 部屋に入ると、私はすぐにパソコンの電源を入れた。
 画面が立ち上がるまでに、コートを脱ぎ、エアコンを入れ、インスタント珈琲の準備をした。
 そうしながら、お茶をする時間もなくただひたすら雪の中を歩いた事が、なぜか新鮮な気がして心が浮き立った。
 彼のメモを見ながらアドレスバーに打ち込む。
 間もなく彼のHPが私の画面いっぱいに映し出された。鴨川にゆりかもめが乱舞している表紙だった。


 蒼い空、静かに流れる冬の鴨川、真っ白なユリカモメ、これはどこの橋から撮ったものだろう。じっと見つめている間に涙が滲んできた。
こんなゆりかもめの風景、何度見たことだろう。でも、こんなざわめいた気分で見たのは初めてだった。メニューをクリックする……。



チャイムの音に気づいて、ドアを開けると息子が白い息を吐いて立っていた。
「何度も鳴らしたのに、聞こえなかったの?」
 そう言いながら靴を脱ぎ、部屋にはいる。大きな包みをテーブルにおいてポケットから年賀状の束を出した。
「好みのものばかり選んでいれてあるから」と包みを指差した。


「あら、ありがとう、良かったのに……」
と言いながら開いてみる。
お重に少しずつお節が入れてある。
「ほんとうは昨日もってくればよかったんだけどね」
その声を後ろに聞きながら、何もはいっていないがらんどうの冷蔵庫にそのまま片付けた。
「スーパーが下にあるから、何もいらないってあれほど言っといたのに」


 頂き物をしながら、迷惑そうな言葉を発してはっとする。これが嫁姑の心の行き違いの言葉になるのだ。何気ない言葉が持つ棘だった。
「お礼はちゃんと後で電話するわね」
 すぐに、言葉を繋いで息子の顔を見る。入院騒ぎから少し私に関心を寄せるようになったのが感じられる。


「ふ~ん。ネットがあるから淋しくないのか」
 画面を見ながら、息子が言った。
「そうよ、足腰立たなくても、これさえあれば全国の友達と瞬時に繋がって、会話ができるのよ」
 私はさりげなく、マウスをクリックして、画面を入れ替えた。
 孫のために用意していたお年玉を息子に渡して、私は追い立てるようにして彼を玄関に送った。


松の内が明けて、スーパーにも普段の顔をしたお客が来るようになった。
 レジが新しくなるというので、20人近くいるパートの女性に順番に講習が行われている。
 今度のレジはつり銭が自動的に出てくる新しいテックの機械で、操作も簡単だった。基本のところは今使っているのと変わらない。誰でもすぐに覚えられる。小銭が勝手に計算されて出てくるのが楽であった。
 そして、お客からもらった小銭も一箇所に投入するだけで良い。


 1円、5円、10円、50円、100円、500円と区分けする手間も省ける。その分、お客を待たさなくてもいいので、気分が楽になる。
 レジを閉めて出し入れの計算をして、1000円以上の不足が出た場合は、始末書を書いて弁償しなければならない。錯覚でつり銭をまちがって少なくわたすと目くじら立てるお客も、多くもらった時は何も言わない。


 500円前後の過不足は結構あった。
 それが、新しいレジでは解消されると思うと、新しい機械への期待ははずむ。もうすぐさよならする古いレジを眺めて、少し感傷にひたっていると、社長が目の前に来た。
 黙って籠を置く。私は精一杯大きな声で、マニュアル通りの挨拶をした。



素知らぬ振りをすることは難しい。お互いに周囲に気を配りながら、社長と従業員を演じた。
 いつものように、彼は5000円札を出す。私はお釣りを彼の手の上に載せながら、目を見た。 彼は小声でひとこと、「メールを」と言った。私は小さくうなずきながら、胸がどきどきした。



社長が籠の中から果物を取り出してナイロン袋に入れ、出口から消えるとほっとした。フロア―の主任が寄ってきて言った。
「夜は完全袋詰めって、言ってあるでしょう。社長のもきちんとこれからは袋に入れてくださいよ」
「はい、すみません」
蚊の泣くような声で謝ってから、私はすこぶる落ち込んでしまった。


 あの雪の哲学の道での出会い以後、ネットでメールのやりとりをし、お互いの心が急速に高まっていた。
 私は、安らかにレジの仕事ができない状態に陥っていた。
 そんな私の様子にいちはやく気がついたのが孫さんだった。彼女は小声で私に言っていた。
「大和田さんは、社長の時には何か緊張していますね。いつもの大和田さんじゃないみたいです……ふふ。」


 恋の悩みを私に相談した孫さんは、カップルのお客が来ると、恋人同士の場合はブイサインをして見せて、夫婦らしき二人の時は人差し指、ただならぬ関係の二人の場合は小指を立てて私に合図する。
 それを見て、私はうなずいたり、首をかしげたりして微笑むのである。


孫さんは私のエプロンのポケットに手を突っ込んできて、Vサインをした人差し指と中指で、私のお腹を押した。
「どっちも、独身だから、おまけです。」
 にやっと笑って、孫さんは自分のレジへ引き返した。私は返す言葉がなくぼやっとレジの画面を見ていたが、胸は早鐘のように動悸を打っていた。


「大和田家は使用人と結婚させる事はありませんよ。」
 夫と結婚する前に、知人に言われた言葉を思い出した。彼の車で実家に遊びに行った時、事務員をしている洋子という女性が、彼の助手席に乗り、彼のジャンバーをしっかりと抱いていた。洋子はどうも思いを寄せているようで、初対面の私にどこか冷たい目を向けてきた。


 結婚の話がなかなか進まなくて少し気がめいっていたとき、知人が探りを入れにきたのである。私の実家とは少なからず取引があった商店主であった。
 社長との結婚を考えているわけではなかったが、時代に育てられた差別意識がふと頭をもたげてくる。





 

社長と檸檬 (完)

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月20日(土)11時53分37秒
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カーテンを開けると、琵琶湖に雪が舞っている。利休鼠のような鉛色の湖に真っ白な雪が斜めに落ちてゆく。ひんやりとした空気がガラスを通して胸にあたる。
 17階の窓から下を覗く。雪は吸い込まれるように地上に落ちてゆく。
 けだるい気分のまま、私は雪の落下を眺めていた。


「何を考えているの」
 声がして振り返ると、彼が手招きをした。うなずいてベッドにもどる。
「結婚しよう」
「こうなったから?」
「いいや、ずっと考えていた。君となら楽しい後半の人生が送れる、そう感じていたから」


 私は一夜を過ごすことになんの不安もためらいもなかった。こうなるまで、短期間であったけれど、煩雑なメールのやりとりや電話をしていた。彼のもっている精神性、生活信条すべてが私を魅了していた。


「結婚はまだ考えたくないわ」
「どうして……」
「結婚はもうこりごりとは思わないけどね」
 私は笑った。
「このままのほうが楽しいし、楽だと思うからね」
「独身どうしだし、お互いに縛るものはないでしょう」
 彼が言った。


 だれにも、縛られたくない。結婚と言う枷にも……。私は心の中でその言葉をつぶやきながら、シーツをめくって彼のベッドにはいっていった。
私は私自身を掴みきれていなかった。どうして家をでたのか、これから何をしたいのか。こんなに好きになってしまったのに、飛び込んでいく事をためらっている自分……に。


彼が顔を覗き込んで言った。
「何かほかの事を考えているでしょう」
 30センチばかり開いたカーテンのガラス窓の向うは吹雪になっていた。


シャワーを浴びて身支度を整え、私たちは28階のレストランにむかった。自然な形で彼によりそう。もう何年も暮らしてきた夫婦のような、そんな雰囲気が私たちにはあった。
 琵琶湖に向かって円形になったホテルは、レストランもそのままの形で、窓辺にテーブルがある。半分はラウンジになっている。
 昼食のメニューが彼と私に渡される。彼はタバコを出しながら、私の目を見た。私はさっさと自分の分を注文して笑った。


 意味もなく笑う自分がとても不思議だが、この穏やかな気分はすてがたい。
 窓外は雪で視界がさえぎられている。はるかな湖北は望めない。しかし、雪で遮断された世界は私たちをまたもうひとつの世界へといざなってくれた。
「お店をやめようと思います」
 孫さんに心を見られてから、私はいつそれを切り出そうかと悩んでいた。


いずれ社員衆知の事実になる。それは彼にとっても、また同輩にとっても仕事がやりにくいに違いないから。
「ぼくの夢を手伝ってくれますか」
 彼の言葉が私を驚かせた。


「蔵書が2万冊ばかりあります。僕が趣味で集めたものばかりですが、それを学生に開放したい。僕は苦学したので、本もろくに買えなかった。そばに、喫茶室を作って、コーヒー一杯でいつまでも勉強できるようなそんな空間を作りたいのです」
オードブルが運ばれてきて、その話はそこで終わった。


「明日、退職願いを出します」
私はいい、フォークとナイフを取り上げた。
彼は黙ってうなずいた。


 雪が少しまばらに降るようになった頃を見計らって、浜辺を歩く事にした。湖から吹く風に乗って雪は傾けた傘の中にもはいってくる。暖かいホテルの中で、コーヒーをすすっていればいいのに、私はなぜか浜辺にでたかった。


 彼もだまって歩く。
 水面に落ちた雪は瞬時に水となり、姿はなくなる。人の心も一緒、と私は思った。心の中にある温かい思いは彼に寄り添う事で、彼の体温に吸収された。いっぱい私の温かい心をあげる……少女のような言葉を心の中でつぶやきながら、湖面を眺めた。


「こんな雪の日に、琵琶湖に来たことなんてなかったね」
 彼が見えない湖北に視線を移しながらつぶやくように言った。視界は烏丸半島までだった。ぼんやりと左手に比叡山がかすむ。
「この風景は、一生ぼくの脳裏に焼き付いて離れないだろうなぁ」


 彼の言葉のうらにある思いを感じて、私はうれしかった。一人暮らしをはじめるまでのあの葛藤の中にあった自分がようやく解放されたような気がする。あたらしい恋との出会いは、想い出から涙を拭い去り、新しいページを追加する事ができそうだった。


「ロマン・ロランの本、変えっこしない?」
 彼が私の傘の端を持ち上げ、顔を覗き込むようにして言った。
「僕の気持ちの証、あなたはあなたの気持ちを僕に……」
 まあ、少女のような気持ちね、と心の中で思いながら、私は笑顔で「いいわよ」と答えた。 あの本を拾い上げた雪の日の、彼の淋しそうな顔が一瞬思い出された。


私はハンドバッグを開けて、文庫本を取り出した。彼はポケットから文庫本を取り出した。カバーがクリスマスデザインの表紙から、薄い紫色の波模様に変わっていた。
「あら、カバーを変えたのね」
「君のと交換するためにね。一生懸命選んだよ」
「私は、セロファンがかかったままのなんの変哲もない文庫本だけど」


「ま、指輪の交換の変わりにってことで……」
彼は笑いながら私の手に文庫本を載せ、私の手から同じロマン・ロランの文庫本を取り上げた。彼はその表紙を少しの間眺めていたが、コートの上着のボタンをはずして、内側のジャケットのポケットに入れた。


私は薄紫の表紙のロマンロランをバッグに入れた。
二つの傘を寄せるようにして、浜辺を歩いた。言葉は何もいらない。二人だけで雪の世界に遊び、漣の音に耳を傾けた。


 肌を重ねる事で、心が相手に移行するとしたら、結婚は果てしなく相手にのめりこむはずなのに、実際は、そうはならず新鮮さがなくなるのは、生活をともにしているからだと、夫を亡くしてからの私は考えていた。
 安穏な生活、経済も日々の暮らしも、一人の男に囲われた結婚生活は、もやがかかったように私の目に、美しい花の新鮮さを見えなくしていた。


 もしも、ほんとうに好きな人が現れたら、今度は結婚しないでずっと最後までお付き合いしたい。恋人のままでいたい。それが私の漠然とした思いだった。壊れるならば壊れてもいい。結婚という枷の中で、愛する気持ちを無くしたもの同士が生活するのはもう嫌だ……。


彼に対してもその気持ちが強い。ロマン・ロランを交換してから私は強くそう思っていた。たった一人を愛する事に恐れも不安もない。相手の心がよそへ向いたとき、そこから離れる事ができる位置に、自分を置いて置きたいと思う。
 それは自分が傷つくのを恐れるのではなく、自分の愛する人との関係を美しいままで保ちたい、そんな想いからだった。実際にそのような場面になった時、冷静に行動できるかどうか、自信はなかったけれど、夫が浮気をした時のように、心の修羅はもう味わいたくなかった。


 その一瞬はお互いがお互いを求めていても、それが続くという自信はもう私にはなかった。私が続けられないと言うのではなく、相手が永遠にそうであると信じる自信がなかったのである。そういう意味では、彼より私のほうが醒めているのかもしれない。
レジのパートをやめる事を申し出たが、理由に窮した。マンションはスーパーの上であるから、入り口は別としても、多忙とか親族の入院とかいいかげんな理由は言えない。とりあえずは、慢性疾患が見つかったからと言う事で、辞表を提出した。


 忙しいときはまた、手伝ってくださいと丁重に言われて、少し心が痛んだが、事務所を出るときには、ほっとした。
 社長との事が明るみに出てからやめるのは、もっと心が痛むに違いないから。
マンションに戻って、ベランダから外を見ると、葉っぱ一枚も付いていない銀杏の大木が梢を風に震わせていた。


 雨のようにはらはらと葉っぱが落ちた暮れの日から、幾日もたっていないのに、この生活の変化。私は過ごして来た時間をぐるぐると前に巻き戻して、最初から反芻していた。
 大げさに言えば、運命の糸はほんの少しだけ私にその端を見せた。それを掴んだのは私。そして引っ張り出して、自分の枷に巻きはじめたのも私。その先に彼がいただけの事。そう考えると、この先の二人がどうなっても、それは自分の決めた事だと、納得がいきそうだった。


突然開けた未来の真っ白な時間を、今度はどうやって埋めようかと、私は思案をはじめた。スーパーのシフトがなくなると、あまりにも沢山の時間が一度に目の前に投げ出されたようで収拾がつかない。
ようやく自分の置かれた立場に、私は気がついた。



                                  ― 完 ―


 

  

 投稿者:   投稿日:2008年 9月20日(土)11時42分26秒
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 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月20日(土)11時40分3秒
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私達は長年子どもに恵まれなかった。
私の血液O型、夫A型、母親がO型で子どもがA型の場合、子どもに障害がおきる率が80%、だから着床しても子どもの都合で自然流産になることが多いと医師に言われた。もう少ししてから不妊治療しましょうと言われた。


30歳を越えたのでもう赤ちゃんは諦めて、子どものいない生活を考える事にした。手始めに車の免許を取りにいった。仮免も終わり筆記試験を受け、合否の判定を待っているときに、つわりが始まった。


免許は取れたが、流産を考え、大事をとって車には乗らなかった。だから私はペーパードライバー。10ヶ月間、つわりは酷かった。あんなに好きだった肉も魚もいっさい食べられない。お茶も飲む事ができず、苦いグレープフルーツ100%のジュースだけだった。
夫の帰ってくる頃には、黄色い胃液がでてくるほど、もどしていた。食べられないのに吐く。検診の時に医師に話すと、異物が体にはいった拒否反応ですと笑われた。


3月14日入院。
破水して36時間過ぎても生まれない。高年初産の域に入っていたので、子宮口が開かないという事だった。入院二日目の深夜、ナースが言った。
「羊水が混濁してきているので、このままでは赤ちゃんがあぶないです。帝王切開になるかもしれませんから、何も食べないでください。麻酔をかけると戻すので、水も飲まないでください」
陣痛促進剤が打たれた。急激な陣痛は来た。しかし出産の兆候がないまま、一時間ほどで陣痛はおさまってしまった。


私が分娩準備室にいる間に、うめきながら運ばれてきた産婦は3人、後からきたのに先に分娩室に運ばれて出産した。隣の部屋であわただしい医師やナースの動き。しばらくすると、元気な赤ちゃんの泣き声がする。お母さんのうれし泣きの声が聞こえてくる。ひとりでそれを聞きながら、私は不安に襲われていた。私の赤ちゃんはどうなるの……。


小刻みな陣痛がきてそれに耐えていると、明け方の6時ごろ、急激にお腹が痛くなりナースコールをする。ナースが飛んできて、すぐに私を分娩室に運んだ。内線でドクターを呼ぶ。
助産婦さんの掛け声と先生の声、するりと体から何かが抜けた。積年の便秘(笑)が終わったような感じあと、助産婦さんの声、そして赤ちゃんの泣き声。


「生まれましたよ、元気な女の赤ちゃんです」
ふわっと、生まれたばかりのあたたかい赤ちゃんが、私と臍の緒が繋がったままで、胸の上におかれた。感激で涙が溢れた。
……ありがとうございます……何度も、何度も、つぶやいた。


綺麗に洗われた赤ちゃんは保育器に入れられた。新生児室へ連れて行かれる時、「ほら、ママにごあいさつしなさい」とナースがそばに保育器を寄せてくれた。娘は保育器の中の温度バーをしっかりと握って大きな口をあけていた。まるでつばくろの雛のような赤い口腔だった。
「まあ、珍しい赤ちゃん、そんなところを握って……」
ナースが笑った。


3月16日午前6時25分、2820グラム。
……ママのところに来てくれてありがとう……
それから8時間、ナースに起こされるまで私は深い眠りについた。



 

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月20日(土)11時32分24秒
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瓜生山の中腹にあるバプテスト病院はキリスト教の病院である。
しかし、患者は信者である必要はない。私は、子どもの救急病院に指定されていたのでここを選んだ。血液型不適合などで万が一の場合、個人病院ならここへ運ばれてくる、それならば最初から入院していたほうがよいと考えたからである。


母子分離制度を取り入れていたバプテスト病院は、赤ちゃんは退院するまで新生児室に置かれる。授乳の時間になると、産婦は授乳室に集まり、ナースが連れてきて抱かせてくれる。


よその産院で赤ちゃんの取り違えなどもあったので、私は娘の特徴をしっかりと覚えるようにしていた。足には生年月日と○○ベビーと記されている。2820グラムと、体重も少ない私の赤ちゃんは、他の誰とも間違えようのない華奢な感じで色は白かった。授乳室に産婦は六人いたがどこの赤ちゃんよりも大人しかった。


二日目夕刻の授乳時、乳房を消毒して待っているのに、いつまでたっても赤ちゃんは連れられてこない。何かあったのかと安になる。
「翔子さん、こちらにいらしてください」
呼ばれていくと、ナースが赤ちゃんを抱いている。


もう一人のナースが、黄疸のレベル表示紙を瞳のところにあてがった。
「ほら、白い部分がこんなに黄疸が強いので、血液が頭の中で凝固しないように、光線療法にはいります。おかあさんは、母乳を搾乳機で搾って捨ててください。きちんとしぼらないと乳腺炎になりますからね」


まる一日間、保育器に入れられて光をあてられることになった。目は眼帯をし、水分は点滴で補充しますとのことだった。
酸素などで視力に影響はないだろうかと質問をした。大丈夫だと答えられたが、不安は高まる。


授乳室にもどり、張ってきた母乳をしぼる。涙が出てしかたがない。ナースが寄って来て言った。
「赤ちゃんもがんばっているんですから、お母さんもがんばりましょうね。泣いていたら体に悪いですよ」
うなずきながら、飲んでもらえない母乳を搾った。


他の新米ママは嬉しそうに赤ちゃんに声をかけながら授乳している。みんな二十代の若いお母さん。私は母乳をしぼってから、追われるような気分で自分のベッドにもどった。
広い八人部屋には私一人だけだった。あとの5人は隣の部屋である。三月の出産は少ないらしい。

窓から早春の京都をぼんやりと見つめていると、ナースが二人、隣のベッドメーキングにやってきた。
「翔子さん、お友達がきます。帝王切開の方だから、少し痛がるかもしれませんが、よろしくね」ナースの声は明るい。


しばらくして、担架で女性が運ばれてきた。寝たまま私と目があうと、会釈のつもりだろうか、頭を動かした。私もだまってうなずいた。
女性はまた眠りについたのか、すぐに寝息をたてた。私より年輩の女性のようだった。


不安な夜を一人過ごすのかと思っていたが、帝王切開をした女性であっても、同室に誰かいると思うと少しほっとした。彼女の寝息が私に安堵をあたえてくれるようだった。



 

寿司折

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月20日(土)11時29分57秒
編集済
 


翌々日からまた授乳がはじまった。
光線療法を終えて私の腕の中に帰ってきた娘。二四時間保育器に入れられ、光をあてられた赤子は心なしか日焼けしたように肌が黒くなっていた。こめかみには点滴をしたらしい針の跡と針の長さの分だけ溝が痛々しくついていた。


何回も搾乳して母乳を捨てていた。やっと乳首を含ませて母乳を飲ませられると思ったが、ミルクに変えるようにと指示がでた。赤ちゃんにミルクを飲ませて、泣く泣く母乳は搾って捨てた。
それでも、丸一日抱く事が出来なかった我が子を抱きしめて、私は幸福な気分だった。


中一日おいて、また母乳を飲ませることになったが、母乳を飲むと白目のところが黄色くなってくる。様子を見ながら母乳を飲ませることになった。頭の中で血液が凝固すると、凝固して詰まった部分によって障害が起きると説明されていたので、とても不安だった。
退院は出産後六日目と決まっていたが、母子とも二日余計に入院して自宅に帰ることになった。


退院は日曜日に決めたが支払いは土曜日に済ませておかなければならない。夫に連絡して、来るのを待っていた。
土曜日の午後、寿司折をぶら下げて義父がにこにことやってきた。八十七才、かくしゃくとしていて、ユーモアに溢れた人だった。


私の目の前に寿司折をだして、笑いながら言った。
「おまえを、請け出しにきたよ」
思わず声を立てて笑った。
光線療法などをしたうえ、名前がついていないので保健はきかない。母子二人の入院費用は30万円弱かかっていた。義父が払ってくれたのだった。


新生児室のガラス越しに赤ちゃんを見た義父は「ちいさいなぁ~」と感嘆の声をあげて見入った。目は切れ長で夫方の顔をしている。赤ちゃんを見ながら、義父は容態はいいかなと私に聞いてくれた。
「お父ちゃんが生きていたら、喜んでくれはったやろうに」
続いて出たきた言葉に胸がつまった。義父より二周りも年下なのに、実父はすでにこの世の人ではなかった。


義父が帰ったあと、帝王切開をした彼女とお寿司を食べた。義父は気遣って二人前を持ってきてくれていたのである。息子の大事な嫁として可愛がってくれる義父に感謝の念は絶えなかった。
結婚を大反対したはずの義父だったが、結婚してからは実の娘のように可愛がってくれる。父親に早く死に別れた私を不憫に思ったのだろうか。



 

 

 投稿者:   投稿日:2008年 9月20日(土)11時28分39秒
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難病

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月20日(土)11時26分58秒
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出産予定日が大分過ぎたのに親友の博美から連絡がこない。
予定日か一ヶ月過ぎた頃、電話を入れた。
「…………」


電話の向こうで、博美が黙り込んだ。私も何事かと気が気でない。
「翔子ちゃん……」
博美が泣き出した。出産は無事済んで自分は退院したが、赤ちゃんは県立和歌山医大に転院させられたという。難病で手術が必要だが、夫や義父との意見があわず孤立しているという。


まだ、子どもが出来ていなかった私は、翌日とるものもとりあえず、和歌山へ行った。駅まで迎えに来た博美の目は真っ赤だった。
「キョダイケッチョウショウ」という言葉が彼女の口から出てきた。彼女の車で医大病院へ向かう。


「手術をしても長生きは保障されない。手術に100万円必要やけど、手術してお腹一杯ミルクを飲ませてやりたいの」
「健ちゃんはどう言ってるの?」
「お義父さんは、いずれ死ぬんやったらお金がもったいないって。健ちゃんは生まれたばっかりの赤ちゃんに、この先死ぬんやったら、手術なんかして痛い目にあわせたくないって……」


博美は一言一言区切るように言う。
「どの理由も納得できるけど……」私は言葉を濁しながら、母親の気持ちと周囲の気持ちのずれをどうする事もできなかった。


医大に着くとちょうど赤ちゃんの診察だった。一緒に来てと言われて診察室にはいると、そこを通り越して別の部屋に案内された。
暖かいけれど、普通のスチールデスクの上にうすい布が敷かれ、赤ちゃんが裸で寝かされていた。


赤ちゃんは痩せて皺だらけで全身白く精気がなかった。私は正視できなかった。医師は人間を扱うのでなく、まるで物体を扱うような感じだった。


「実験台にされるんやって、健ちゃんが言ってる」
車の中で博美が言った言葉が思い出された。試験管やフラスコの並んでいるおおよそ診察室とは言えない部屋だった。赤ちゃんの容態を説明している医大の医師を私は少し反感をもって見つめていた。


ナースが来て赤ちゃんを別室に連れて行った。私達は診察室を出た。
「あんな裸のままで赤ちゃんをあちこち連れて回るなんて信じられない」
私が言うと、博美はうつむいてうなずいた。
「なんで、体あんなに白いものがいっぱいついているの?」
私が聞くと、博美は答えた。


「カンジダ菌なんだって。抵抗力がないから菌が繁殖しているって」
そのあと、私は言葉が出なかった。医療には詳しくない自分が何を言っても母親である博美を刺激するだけだと思った。


容態も、手術も難しい。母親の思いと父親・祖父の思い、かけはなれているようだが、赤ちゃんを思う気持ちに変わりはない。
腸がぜん動運動をしないから、胃から先に飲んだミルクはいかない。胃の横に人工肛門が作られていた。手術は首から直接心臓に栄養を送る手術だと言った。


博美は自分の貯金をはたいてでもそれをしてもらうと泣きながら私に訴えた。その手術はこれからの生存には、なんらの解決にもならない、そう思ったが口には出せなかった。産後の肥立ちもままならないような痩せた博美の体と神経質な目に私は戸惑っていた。


子どもが出来ない私を気遣って、博美は出産も知らせず控えめにしていてくれたのに、彼女の身の上に突然ふりかかった赤子の難病に私は神も仏もないのかと天に憤った。


和歌山から帰って一週間後、夜に博美が泣きながら電話をして来た。
赤ちゃんが亡くなった知らせだった。手術を決意したけれど、その手術を待たずに彼女は逝った。


無言で受話器を持っている私に、博美はずっと泣きながらあれこれ話してくれた。気が済むまで言ったらいいよ、私は心の中でつぶやいていた。


 

  

 投稿者:    投稿日:2008年 9月20日(土)11時25分31秒
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 投稿者:   投稿日:2008年 9月20日(土)11時15分40秒
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 投稿者:   投稿日:2008年 9月20日(土)10時35分44秒
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太一と蛇

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月20日(土)10時35分7秒
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「太一、ゴリ番やぞ」

父の声が、寝ている太一の頭上で響いた。

「はよう、起きろ」
父の叱責するような声音に、太一は慌てて飛び起きた。すぐに起きないと、何が飛んでくるかわからない。太一の父は、口より先に手がでる。


ゴリの番はずっと祖父の役目だった。
その祖父が百歳まであと二年を残して、六月にぽっくりと大往生してしまった。
太一は、祖父が大好きだった。祖父の昔話は、大変おもしろくて、いつも胸をどきどきさせながら聞いた。


祖父の忌明けが終わると、父は漁を再開した。太一は祖父のしていたゴリの番をすることになったのである。


夏休みは、朝の六時半に村の会議所の広場に、小学生と中学生の全員が集まる。そしてラジオ体操をする。それが終わると家に帰って、午前十一時までは外出禁止である。学校の規則で、午前中に家で宿題をする事になっているのだ。規則を破ると、班長をしている中学生から叱られる。この規則は、村中の家が守っていて、午前中は子ども達に家の仕事の手伝いさえさせない。


だから午後になると、子ども達は一斉に表に飛び出してくる。たいがいは寄り集まって神社の境内で遊ぶ。


遊びたいさかりの、六年生の太一には、ゴリの番は辛い。皆が神社の境内で思い思いに遊んでいるのかと思うと、父がうらめしくて仕方がなかった。しかし、そんな事には一向お構いなしの父は、子どもを手足のように使い、太一を見ると必ず用事を言いつけた。言い付けを聞かないと、母親が怒鳴られるか、平手が飛んできた。


 川原につくと、本流に並行して、父が作ったゴリ用の細い水路が目に入った。簾が上流と下流にきちんとさしこまれている。下流の簾は「入」字型になっていて、山形のところが、一センチばかり隙間が開けてある。ゴリはここから中に入るが、上流は簾で止められているため、入ったが最後、ここから逃れられない。


ゴリの簾(す)は、竹を五十センチの長さに切り、それを直径五ミリぐらいの竹ヒゴ状にして、簾にするのだから、気が遠くなるほど、竹ヒゴを作らなければならない。来る夜も来る夜も、竹を削っている父を見て、太一は感心するばかりだった。それができあがると、筵を編むように、竹ヒゴを簾状に編んで行く。この作業も長くかかる。これらは冬の間の夜なべ仕事で、春になるといつも新しいゴリの簾ができていた。


太一の父は手先が器用なのか、アイディアが豊富なのか籠からゴリ収集の生簀箱を作り、果ては投網まで自分流に編んでしまう。
ゴリのような小魚を煮るのは母にまかすが、大きい魚をさばくのは父がした。鯉やなまずのたぐいから、鶏や兎まで上手に料理をした。
ゴリは浅瀬を昇る習性があるので、人工水路に呼び込み、川を昇らせ、簾(す)の中に誘い込んでとるのである。


何事も大きい事が好きな父らしく、引き込み用の水路も、人より大きい。鋤簾で砂を掻き出し、石ころだらけの中洲に、水路をつくるのである。父の簾は村人のより丈も長く幅も広い。砂で埋め込む部分を深くするので、手作りでより長い簾を作っているのである。以前水路を作っている所を見たが、一時間近くかけて丁寧にこしらえていた。
そんな父の作業を見るのは、太一は退屈しなかった。


上流の簾の片隅に、子供がひとり寝転んで入れるような大きな生簀箱がしつらえてあり、昇ってきたゴリはそこに留まるようになっていた。箱は高さ五十センチ、幅五十センチ,長さ八十センチの大層なもので、高さの三分の二を河原の砂に埋め込まないと、浮力が働いて浮かび、箱は流されてしまう。箱を埋める作業もたいへんだった。


村人は最後にゴリを収集する時、蓼を取ってきて揉み、ゴリを下流へ追いやって、ざるを置いて掬う。
父はその作業を省くために、生簀箱を作ったのである。難点は、水を含んだ箱はとても重くて運ぶのがめんどうな事である。いちいち家に持ち帰ることができないので、盗まれないように、川原から上げて、草や竹笹を被せて藪の中に隠しておく。


太一は子ども心に、こんな大きい箱はだれも盗っていかないだろうと思った。
父の仕掛けは大きいのでたくさんのゴリが入る。ごい鷺がきてゴリをとったり、ハス釣に来た釣り人や村人が、生簀箱の中のゴリを掬っていく事もしばしばある。ゴリ番はそれを見張るのである。


祖父はいつも河岸から河原にせりだしている、どんぐりの大木の陰に筵をしいて寝転んでいた。そして呟いた。
――魚が水面に輪を書いたり、銀色の腹を出して飛び跳ねるのをみていると、わしは極楽にいるようじゃ。ときどきはどんぐりの青い実が落ちてきて、頭にあたったりするが、それでもここは風が通ってすずしゅうて極楽じゃ――


祖父には極楽でも、太一はゴリの番が嫌でたまらなかった。木陰に寝そべって、ゴリの簾を終日見張っているのは、苦痛でしかなかった。


救いは、週三回の水泳日だった。その水泳の日は、村中の子どもたちが、太一がゴリの番をしている少し上流で泳ぐ。太一も番をしながら、一緒に泳ぐことができるのだ。そこは、野洲川が琵琶湖へ入いる河口であるから、、結構な深みもあり、水も澄んでいる。格好の水泳場所だった。


水泳日は、中学生が監視役で、村中の子供達二十数人がそこで泳ぐ。深いところで泳ぐと水はひんやりと冷たく、魚が太ももをつついてきたりする。体長三十センチほどのハスの群が、太一達の体の間をすり抜ける。魚を捕るのが上手な子もいて、巣穴からうなぎをひっぱりだしたりする。浮きじゃこと呼ばれるモツなどは手掴みで捕まえる子もいた。小さい子ども達は、それをじっと見て、漁のやり方や楽しさを覚えていくのである。


まれに木の上から蛇が落ちて来て、一緒に泳ぐことになったりもする。そんな時、女の子や小さい坊主達は、キャアキャア騒ぎたてて、逃げまわる。中学生達は、蛇を追い回して騒ぐ。蛇はS字を書くように体をくねらせて、逃げまどう。ワアーワアーと声を上げながら、石を投げたり、棒切れで水面を叩いたりして大騒ぎだ。しかし、蛇を殺したり傷つけたりはしない。蛇は最後には岸へ辿りついて、藪の中に姿を消す。恐れをなしてか、蛇はそれから暫くはでてこないのであった。

――まむしか青大将か見極めないかんぞ――

蛇が出た日は、子どもたちは祖父のところへ集まってくる。みんなで蛇の大きさや逃げる様子をいいつのって、いつまでも興奮がさめやらないのであった。
子どもたちが少し落ち着いた頃、祖父は必ず、静かな低い声でこう付け加えた。


――このあたりにはなあ、蛇の総大将がおってなあ、そいつにだけは逆ろうたらいかんぞ。そんなに大きな蛇ではないが、あとできっとひどい目に合わされる。尻尾に銀色の輪が入った蛇でのう、時々人前で蛙を飲み込んでは、強さを誇示しよる――


その日、弁当を食べてから、太一はゴリの簾(す)から離れて、藪に近いところの大木の木陰に、茣蓙をしいて寝転んだ。天気はカンカン照りだったが、空気は湿気を含んで、肌にじっとりとまとわりついてくる。木陰にいても、いがぐり頭の毛の先から、汗が滴り落ちた。風がやんで空気がどんよりしている。


「夏の友」を広げて、宿題をこなそうとするが、なかなか身が入らない。雑木にすがって鳴いている蝉の声が、太一の耳の奥にとどまって、ワアンワアンと響いている。


寝転んで石に耳をつけると、ペタンペタンとへんな音がする。目だけをその方向に動かすと、二メートルほど先から、蛙が太一めがけてやってくるところだった。大きな殿様蛙だ。まだらの模様が保護色で変化している。ベージュと焦げちゃが入り混じっているのだ。どうも川原の石に体色を合わせたらしい。


蛙は太一の存在を察知したのか、一メートルほど先でピタリと止まった。太一はじっと蛙を見つめていたが、弁当の握り飯を食べたあとの満腹感と、けだるい夏の空気とで睡魔に襲われていた。


太一が身動きしないのを確かめて安心したのか、蛙が鳴き出した。
「雨降れ、雨降れ」
太一には、蛙の鳴き声がそう言っているように、聞こえた。蛙の声を子守唄に、太一はまどろんでいった。


ふと気がつくと、蛙の声がしない。そっと目を開けると、さっきと同じ位置で蛙が身じろぎもせず、じっとしている。
「お前鳴かんのか……」
太一が、蛙をびっくりさせないように、小さい声でいった。


しかし、蛙は太一の声に反応せず、くりくりした目玉をじっと同じ方向にむけたまま、置物のようである。太一は小粒の砂を蛙の十センチばかり手前に飛ばしてみた。しかし蛙は身動きひとつせず、太一の誘いにものらなかった。

「お前へんやなあ」

呟きながら、蛙の視線の延長線上を辿ると、そこに何かがいる。蛙から一メートルのところに何かいるのである。午睡からさめたばかりの目を見開き、じっと凝らしてみる。と、大小の石の間に体を滑り込ませて、青大将が身構えていた。首をもたげて口を少し開けている。ちろちろと赤い舌が揺らめいている。良く見ると舌が三本もある。舌は揺れているが、体は微動だにしない。小さい点のような目が、蛙を射すくんでいた。体は地面にしっかりと這わせている。


石の間にある蛇の体に、力が入っているのがわかった。太一も射すくめられたように、体が動かなくなった。蛇は熱い石の上は好まないから、たいていは木の上か、岸から水の中を泳ぐかで、こうして川原を這う事はめったにない。きっと、蛙の鳴き声を聞いて、藪から這い出し、獲物を獲るために、川原へ出てきたのであろう。


「逃げろ」
太一は蛙に向かって言った。
「シッシッ」
太一は、今度は蛇に向かって言った。蛇は首をもたげて、シャーッと威嚇した。
太一は、蛙の面前に小石を投げた。しかし蛙は動かない。蛇に見込まれて、もう失神しているのではないだろうか。 なんとかしなければ、蛙があぶない。太一の心はあせる。


――蛇の総大将がおってなあ――

祖父の言葉が脳裡を横切った。視線を蛇の頭から胴体にそって移し、尻尾を捜した。ひときわ大きな石の陰に蛇の尻尾はあった。太一は、胸に矢を受けたような衝撃を覚えた。痺れが走り、同時に寒気が背筋を駆けぬけた。その尻尾にはまぎれもなく、銀色の輪が太陽の光を浴びて、にぶく輝いていた。


その瞬間、太一は立ちあがった。太一の手は足もとの石を拾い上げ、蛇に向かって投げていた。蛇は太一に向かって進んできた。後ずさりしながら太一は大声で叫んだ。


「逃げろ、逃げろ、カエル、逃げろ」
今度は、蛙の目の前に、バラバラッと小石を投げた。
蛙はその音で、失神状態から脱したのか、ゲゲともググとも聞き分けられない鳴き声を漏らして、藪の方へ一目散に飛び跳ねて行った。
蛇は身構えたまま、太一の前で威嚇していた。今度は太一が蛙になる番だった。


その時、ゴオーッという音が聞こえた。太一はあたりを見まわした。何も変化はない。太陽はギラギラと川原の石に照りつけている。竹薮は時々過ぎる風に、だるそうに揺れた。下流は水面がぬらっと光っていて、漣ひとつない。しかし、音はだんだん大きくなってくる。地震だろうか、足元が響いているように感じられる。


すると、今まで威嚇していた蛇が、姿勢を崩し、するすると一直線になって、太一の脇をすり抜けて、上流の方向へすべってゆく。落ち着き払ってはいるが、太一は不気味だった。
太一は蛇の行く先を見た。曲りくねった川の上流の水面に、白い物が見える。それは百メートル近い川幅いっぱいに張られた、ゴールテープのように見えた。


太一はじっと目を凝らした。太一の立っている川の水面より盛り上り、上下しながら白い帯はこちらへやってくる。それはまさしく、洪水だった。
――上流の山で雨が降ると、翌日にはその雨が川となって、このあたりへたどり着く――
祖父の言葉を思い出したとたん、足が震えてきた。


「流される……」
太一は、はじかれるように筵を掴むと、父のゴリの簾(す)へ向かって飛んでいった。
簾(す)を、埋め込んだ川原から引き抜こうとするが、じょうれんで丹念に作ってあるために、なかなか抜けない。太一の脳裏に簾や生簀箱を流されて、怒り心頭に達している父の顔が浮かんだ。

渾身の力を込めて、砂利の中から簾を引きぬき、太一は箱の中に投げ入れた。そして体を全部乗せて、生簀箱を左右に揺すり、埋め込んだ川砂の中から引っ張り出した。
ゴオーッという洪水の音が迫ってくる。太一の背丈ほどもある濁流の帯が、川幅いっぱいに走ってくる。それは水が総立ちして駆けてくるようだった。


生簀箱を引き上げたが、水を目いっぱい含んでいる箱は、簾の重さも手伝って、持ち上げる事さえできない。 太一は足を踏ん張って、生簀箱を引きずった。川原の石の上をガラガラと音をさせながら引きずった。

一直線に岸の方へ行くと、そこには深みがある。深さを推し量っている余裕はもうなかった。轟音と泡しぶきを飛ばして、洪水が迫ってきている。腰まで深みにつかりながら、箱を力いっぱい引き寄せた。その時、洪水は、魔人が走り込んでくるような勢いで進軍してきた。太一を捕らえた濁流は、一気に太一を首まで沈めた。太一は、右手で必死に岸の杭を掴み、濁流の勢いに流されそうになる箱を、死んでも放すまいと、満身の力を込めて引き寄せた。


最初の洪水が太一に衝撃を与えたあと、濁流はなめるように太一のまわりを取り囲み渦を巻いた。濁流の泡は花のように大きくふわふわとまといついてきた。


――落ち着いてーーと、太一は自分に言い聞かせた。恐怖の一瞬、難を逃れたが、太一の下半身はがくがくと震えてとまらない。やっとのことで、岸に這い上がり、箱を引きずり上げて、太一はへなへなと座り込んだ。
「太一、大丈夫か」


父の声がした。父が太く大きな手を出して、太一を抱いた。太一はびしょぬれの体で、父にしがみついた。顎が、がくがくと震えて、泣いているのに声がでない。


その時、一匹の蛇が、するすると二人の足元をすり抜けた・・・。
蛇は、銀色の輪をにぶく光らせながら、ゆうゆと茂みの中に入っていった。




 

  

 投稿者:   投稿日:2008年 9月20日(土)10時34分54秒
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縞の袋

 投稿者:檜攝子  投稿日:2008年 9月20日(土)10時33分45秒
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ベランダの鉢植えに水遣りをしている時、玄関のチャイムが鳴った。
覗き穴から外をうかがうと、宮田巡査がじっとこちらを見ている。私は急いでチェーンを外してドアを開けた。
「奥さん、お宅を訪ねて来たおばあさんがいるのですがね、なんとも要領を得ない話なんですわ。昔別れた産みの母親だとかなんとか、言うてるんですわ」


顔なじみの巡査の言葉に、私は慌て彼の制服の袖口をとってドアの中に招じ入れた。ドアを閉めてから「どうも」と言い、愛想笑いをした。
中庭を囲むようにして建っているマンションは、吹き抜けが煙突の役目をしていて、個々の玄関での話の内容は四方八方に届き、プライバシーが筒抜け状態になる。だから、聞かれたくない話は玄関先ではしないように、普段から注意している。


「その人、私の母親だと言っていますか?」
「ええ、自分が離婚した時、婚家先においてきた娘だと言ってるんですがね、少し痴呆が入っているような感じもありますんで、お連れする前にお話をしといたほうがいいとおもいましてね」


そう言いながら、宮田巡査は一枚の写真を持っていたファイルから取り出した。写真は変色し、ふちがところどころ破れている。それは丁寧に厚めのカード入れに挟んであり、幼子とすらりとした三十前後の女性が写っていた。年月を経て薄汚れた裏側には―昭和二十三年一月十五日、愛娘淑子とともに、多佳子一歳―と流麗な文字で記されていた。多佳子とは私の名前である。私は食い入るようにその写真を見つめた。記憶の糸を手繰り寄せて思いだそうと努めたが、その写真を見た記憶がない。しかし、その女の子が持っている縞の袋には確かに見覚えがあった。


「母と言う人は交番にいるんですか」
「ええ、今もう一人の巡査と話をしています。連絡先の電話番号を書いたメモを持っていましたので、そちらへ問い合わせましたら、息子だと言う人が出て、確かに娘の所へ逢いに行ったと言うのです。しかし奥さんのお宅は、この間、お葬式をなさったばかりですよね。ご主人と奥さんの双方の親御さんがもうご健在ではないとお聞きしていましたから、どうかと思いましてね」


顔なじみの宮田巡査は不審そうに首を傾げた。私は長らくPTA役員をつとめたので、地域の巡査と話し合う機会が多かった。その頃は誘拐事件が多く、派出所へ出かけては危険地域のパトロールの依頼をするなど、宮田巡査とも話し合う事が多かった。


「とりあえず、交番へ行きますわ」
私は急いでエプロンをはずし、サンダルを突っ掛けた。
「どこの家庭にも秘密の一つや二つはあるもんですわ、奥さん」
宮田巡査はドアを開けながら小声で言った。気遣いをしてくれている宮田巡査を後ろに、私は交番へと急いだ。心当たりはある。実家の一昨年亡くなった母は継母だった。
マンションから歩いて五分ばかりの交番で、実母と名乗った老婦人は、若い巡査を相手にタバコを片手に談笑していた。ガラス戸を開けると、その人は振り返ってじっと私の顔を見た。


「多佳子……」
そう言うと、タバコを灰皿にじりじりと擦り付けて火を消し、立ち上がった.
「この子です、娘です、確かに娘です」
その人は立ち上がると、私の手をとって言った。
「さあ、おまえのマンションへ行こう」
あっけにとられている私を抱くようにして戸口へと押し出した。宮田巡査がその人の顔と私の顔とを交互に見比べている。私は軽く会釈をすると、その人に押し出されて外に出た。


五十年あまり逢っていない母と娘の再会だった。なのに、平然と「娘です」と断言したその人をいぶかしそうに見ていた宮田巡査が後を追って出てきて言った。
「奥さん、何かあれば連絡してください」
私はもう一度、無言の会釈をすると、元気な足取りのその人の後に、複雑な思いでついて行った。私があれこれ言わなかったのは、世間の目がある事を、自分の心に言い聞かせていたからである。


老婦人はマンションの前で立ち止まると、「六階だったね」と振り返った。その目が潤んでいるように見えた。私は頷いて、先になって、エレベーターの前まで歩いた。その人は宮田巡査から返してもらったナイロン袋いりの写真を、大事そうに大きな手提げ袋の中へ入れた。そして、その袋の中をごそごそといじくっていた。


「六階です、ここです」
普段の私ではないような、か細い声でその人に声をかけて促した。婦人は何か探し物でもあるのか、まだごそごそと手提げの中をまさぐっている。
「あら、いい眺めだね」
六階の廊下に出ると、目の前に京都の町が一望のもとに見渡せる。婦人は感激したような声でしばらく周囲に広がった景観に見入っていた。夕暮れの中に、大きな伽藍聳えている。
「あれが東寺さんの五重の塔だね」
―東寺さん―、その言葉に、私ははっとした。お寺に「さん」をつけるのは京都独特の言い回しである。しゃきしゃきした言葉の合間に表れた「東寺さん」という言葉に、今までわだかまっていた物が取れていくようだった。


部屋の中へ入ると、その人は四つある部屋をぐるぐると何度も見に回った。そんな様子に戸惑いながら、私はお茶を入れた。
一生母には逢わない、逢えないものと心の中に刻んでいた。継母が継母を感じさせないように気遣って育ててくれた。また、周囲の徹底した気遣いもあり、実母の存在に気づかずに成長した。存在を知った時、私は成人していたが、心の片隅で、母はもうこの世の人ではないのだと自然に思い込んでいた。


「俊子はお前をこんな箱のような家に住まわせて、自分の子にあの大きな屋敷を継がせたんだね」
窓辺によって、東寺を見やりながら、低い声でその人は言った。俊子と言うのは継母の事である。
「あなたはほんとうに私のお母さんですか」
おずおずと私は尋ねた。
「おや、自分の実の母の事も知らないなんて、お前は親不孝な子だね。私はこうしてお前の小さい時の写真を片時も離さずに身につけているっていうのに」
私の目を覗くようにしてその人は皮肉たっぷりに言った。エレーベーターの入り口あたりからずっとまさぐっていた袋にもう一度手を入れ、何やら引っ張り出した。縞の袋だった。橙色の地色に茶色の縞模様がある。橙色は褪せて汚れ、辛うじて昔の色を忍ばせている。見覚えのある縞の袋だった。雛祭りの時、必ず継母の俊子がお道具と一緒にそれを出してきてお菓子を詰め、段飾りの横に立っている市松人形のもとに置いた。祖母が大切に使うんだよと言いながらお揃いの袋に、飴玉のつつんだのや雛あられを入れてくれた。


「これはね、お前の綿入れでんちを作ったときのはぎれでこさえたものなんだよ。おでんちは良く似合って可愛かったよ、ああちゃん、ああちゃんて、喋れないお前は私の事をよんでくれてね」
実母とは一歳の頃に別れている勘定になる。その時、祖母はあらゆるアルバムから、実母の写真を剥がしていた。実母の存在を知った時に、私は祖母の念の入れように驚いたが、それが私や継母の幸せのためにした事だと悟ると責める事もできなかった。


「ああ、おいしい。こんなおいしいお茶は久しぶりだよ。嫁はお茶を入れるのが下手でねえ。お前はやっぱり私の子だね.お茶を入れるのが上手だよ」
目を細めながらじっと私を見つめた。明るめのベージュのブラウスに薄茶のスラックスをはき、レースもようの薄緑のカーディガンを羽織っている。金の鎖のネックレスが皺の多い首を飾っていた。


「長い事、お前に逢いたいと思っていたけれど、やっと逢えて嬉しいよ。私はもう長くない命だから、死ぬ前に一度逢いたかった.この目でお前が幸せに暮らしているのをしかと確かめたかったのさ」
そう言いながら、テーブルの向こう側から私の方へ寄ってくると、その人は私の手をとって、大事なものを持つように丁寧に自分の方へ引き寄せた。そして、年老いてごつごつした手で撫ではじめた。


「この手だよ、私の可愛い娘、私の可愛い娘」
そう言いながら、涙をぽろぽろこぼした。
何が何だかわからない。ほんとうにこの人が私の母なのだろうかといぶかしく思う私も、婦人の涙につられて胸がいっぱいになり涙が頬をつたった。


「少し休ませておくれ、随分と遠くまできたものだから、疲れてしまってね」
婦人は急に思いだしたように、涙にくれて抱き合っていた私を押しやるとごろりとソファに横になった。クッションを枕に数分もしないうちに、寝息をたてはじめた。髪は黒く染めてあるが、根元のところは五ミリほど真っ白である。短くカットしてあるが、横になるとパーマをかけてない髪はばらりと分かれ、頭皮が透けて見えた。切れ長な目が、私に似ているかしらと、涙でいっぱいの目で婦人を見やると、実母と名乗るその人の顔がぼやけて見えた。


身綺麗にしているけれど、幸せなのだろうか。そうは感じられないと私は思った。どこか荒んでいるような雰囲気が感じられる。宮田巡査の言葉が思いだされた。
「痴呆があるようですからね……」
でも、もしそうだとしたら、その薄れかけた記憶の底に、一歳で別れた私の事を忘れずにいて、こうして訪ねて来てくれたのだと思うと、どっと涙が出てきた。
逢いたい気持ちを殺していた自分をそこに発見した。育ててくれた継母の俊子や、祖母に対して、その愛情に報いるために、実母を心の中で死んだものと考えるようにしていた。そして、そう信じる事を続けているうちに、心の中で母を亡き者としてこの世からはじき出していたのである。


ソファのそばに座って私は母の手をさすっていた。苦労した手であった。皺のもりあがりが痛々しい。日に焼けた手は、私のように優しい肌ではなかった。どんな経過で不意に私に逢いにきてくれたのだろうか。何を思って私に逢いにきてくれたのだろうか。


不意に母がふふふと笑った。楽しい夢でも見たのだろうか。年を経ると赤子に返ると言うけれど、本当にそうだ。まるで赤ん坊のような母だった。辛く苦しい思いをして暮らしているのなら、この家で暮らすように夫に話してみようと、私は考えた。夫の両親を看取り、実家の両親も亡くなった。子供達も成長して手もかからなくなっている。気がねする人はもういない。訳を話せば夫はきっと好きにすればと言っててくれるに違いない。勝手にそう思い描いて、私は心のうちにほのかに日差しがさしてくるような思いがした。目の前の母と、幼い頃、添い寝してくれた祖母とが、重なって見えた。


母と暮らした記憶がないのに、この愛おしさはどこから来るのだろう。産まれた私をやさしく抱いたであろう、細くなった母の腕を、そっとさわって撫でた。
電話のベルが鳴った。

「奥さん、おばあさんいますか。今、ご家庭からおばあさんを迎えにこられているのです。やはり痴呆だそうですわ。息子さんとこれからお伺いしますから。ええっ、寝てはりますか。それは困りましたな。ええ、しばらく寝させてからですか。待ってください.息子さんに聞いてみますから。 奥さん、遠くまで帰るらしいから、これから迎えに行くそうです。自家用車だから、車の中で休ませるいうてはります」


しばらくして、息子と名乗る五十がらみの夫婦がやって来て、丁寧に挨拶をした。
「大分ボケていましたね、変な事を言ったと思いますが、気になさらんで下さい」
「昔、別れた娘がどうのこうのと言うんですが、おばあちゃんは初婚でうちの人が初めての子供なんですわ。うちの人が怪我をした時、うちの人大工をしているんですけど、屋根から落ちて大怪我をしたんですよ、その時手がかかるので、施設に一年ほど預かってもらってから、こんな事を言うようになったんですわ」


「ほんと、あちこちの家に迷い込んで、あんたは私の別れた娘じゃと言うもんですから、どちらのご家庭でもおおもめしましてね。私も謝り通しですわ。こちらさんにもご迷惑おかけして申し訳ありません」
夫婦は代わる代わる話を継いで、しきりに謝った。早く暇乞いすると言う夫婦を引き止めて、私は実母だと言ったその人を少しでも長くこの家で休ませてあげたいと思い、世間話をした。
小一時間ほどして、目が覚めた老婦人は、何事もなかったようなあっさりした態度で、私に挨拶をし、二人に伴われて帰っていった。


その人が寝ていたソファに根元が五ミリばかり白い毛髪が数本張りついていた。細いしなやかなその毛髪を、私は捨てる事ができなかった。大事に半紙につつんで鏡台の奥にしまった。
それから、私はアルバムを引っ張り出して、丹念にページを繰った。継母の俊子が丁寧にこしらえてくれたアルバムは私の宝物であった。妹の朋子がうらやむほどきちんと整理してあった。思えば実の子でないからこそ手をかけ、あらゆる事を尽くして、私を育ててくれたのであろう。その心遣いをありがたく思いながら、やはり、俊子にとって朋子がたった一人の実の子だったのだと一抹の寂しさを感じる。朋子に対しては、実の子であるからこそ、おざなりな事も許してもらえると、俊子は思ったであろうからアルバムもそこそこにしたのだろうと思う。そこまで、考えが及ぶと、私は先ほどの老婦人が恋しく感じられた。ぞんざいな口調であった。実の子にわがままを言うように、素直に言葉を繋いでいたのが妙に嬉しく懐かしく感じられた。


雛祭りの写真のページを開いた。大きな虫眼鏡を持ってきて、私はその五段飾りや段の下のお手玉やおもちゃの間を覗いた。大きな毬のそばにうっちゃってある縞の袋が目にはいった。私はどきどきする胸を押さえて虫眼鏡を縞の袋に合わせた。まぎれもなくそれは、白黒の写真ではあるが、先ほどの婦人が手にしていた縞の袋であった。そして赤子の頃のアルバムを開いて繰っていくと、オムツやおもちゃの類の雑多な写真の中に埋もれ加減に、縞のおでんちを着た熊の縫いぐるみがちょこんと座っている。婦人の話が思いだされ、じわりと瞼が熱くなってきた。


しばらくして、老婦人を連れて帰った息子の嫁なる人から、手紙が届いた。丁寧に記した手紙の中で、その時、縞の袋について尋ねた私の問いには、
「縞の袋は、施設でお世話になって家に帰って来た頃から、時々手にしては飽かずにながめている事がありました。どうしたのと尋ねても何も答えないで、反対に隠してしまうのです。痴呆で半分記憶がはっきりしない姑は、その事を答えられないのだと思います。記憶がはっきりする時もあるので、折にふれては聞いてみますが、期待しないでください」とあった。


マンションの窓から東寺を眺めながら、私は実母の事を考える事が多くなった。
私の事を考えて、私の年齢と同じこの五十三年間を生きてきた女性が確実にいた。その存在は、平穏だった心の泉に石を投げ、小さな波紋をおこし、今では大きなうねりにとなって私をも揺らせている。
「てだてはある」と、私はもう一人の私に呟いた。
夕焼けに染まった茜の空に、東寺の五重の塔と大伽藍が聳えている。
巣に帰る鳥達がその上を黒い塊となって、ねぐらをさして飛んで行った。





 

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